声優論考③:演技と脚本、演出

やや短めですが、声優の演技について避けられない問題をひとつ。

 

演技というと、もっぱら演者の良し悪しが取り沙汰されます。もちろんそれは演技を語る上で演者が決定的な要素になっているからに違いがないからではあるのですが、また同時に「スター」に起因する排他性がないとも言い切れないのが事実です。

演技において演者という要素がキモであることは確かですが、同レベルに重要な要素があります。脚本と演出です。

 

演出については言わずもがな、どんなに演者がシリアスな「演技」*1を見せようとも、それが滑稽な音楽に乗せて表象されていればその効果は減じてしまうでしょう。音楽だけでなく、カメラワークやその他のあらゆる演出が「演技」*2に少なからぬ影響力を持っているのです。

脚本についても同様のことが言えます。

七五調というものがありますが、日本文化に慣れ親しんだ人たちには、このリズムは話者の「演技力(≒表現力)」に左右されずに一定の聴覚効果を与えられます。同じように日本語だとべらんめえ調、文語調などの調子が存在し、このコードともいえるようなリズムも「演技」を決定づける要素足りうるのです。さらにいうと、リズムどころかひとつひとつの音韻、音がどのように組み合わされているかということが*3、つまり、脚本にどのような台詞が書かれているか、これすらも「演技」において考慮されなければならないのです。

 

ひとつ例を挙げましょう。

聲の形』で主人公・石田将也がヒロインの名前を叫ぶシーンにおいて、もちろん入野自由の「演技」が効果的であることは前提として、演出によって高められた緊張感や「ニシミヤショウコ nishimiya-shoko」という音韻の構成があの印象的な「演技」を形成しているということです。

仮に、異なった演出であれば違う印象を受けるでしょうし、「ショウコ」が「マリア」になるだけで言い方も聞こえ方も大きく変化します。あの場面では絞り出すような声と「ショウコ」という音韻の組み合わせも重要であるわけです。

 

脚本の問題は脚本家の言葉選びのみに集約されるものではありません。

七五調の例だと話者のレベルが考慮されないと説明しましたが、これが方言、訛りになると話者のレベル(=演技力)も考慮されなければなりません。リズムだけでなく演者のイントネーションや間を操る力が問われてくるのです。ここまで来ると、再び声優論考の初めに話が戻ってきます。要するに、演者の演技力(=技術力)の問題です。

 

これといった結論のないまま、まとめになるのですが、言葉はテクストに変換されうる以上、というよりもテクストが発声されて「演技」となる以上*4、「演技」を語る上で脚本および脚本家の問題系を避けることはできません。また同じように演出も軽視されてはならないはずです。

「演技」とは「スターによる個人表現」ではなく、「総体と受容」なのです。自戒も含め、「演技」の記述においてこのことを念頭に置くことを忘れないようにするべきでしょう。

*1:演者の個人表現

*2:総合的な場面とその受容

*3:発話において重要であるのと同じように

*4:ここで立ち上がってくるのが「アドリブ」という問題です。これはテクストと発話の関係だけでなく技術と感情の問題も含めて考える必要があり、今後詳しく研究したい問題であります。