「戦争とアニメ映画」、『この世界の片隅に』、『火垂るの墓』

 高畑勲の著書『アニメーション、折りにふれて』(岩波書店、2013)のなかに「戦争とアニメ映画」という文があります。文中、冒頭で戦時中のアニメ映画を概観した高畑は『桃太郎・海の神兵』が1984年にフィルムセンターで上映されたときの若者の受容について危機感を示しました。当時の若者は『桃太郎・海の神兵』のプロパガンダ的側面や歴史的背景を理解せずただの娯楽物として享受したのです。さらには、その文脈を説明されると制作者が心ならずも戦争に協力しなければならなかったと解釈し、同情したという。

 次に高畑は反戦アニメについて触れます。高畑によると、一般に言われるところの「戦争の悲惨さ」を描写した「反戦」は真の「反戦」ではないという。「戦争の悲惨さ」とは過去を振り返るまでもなく今や恒常的に世界に蔓延しており、その様は日々ニュースによって伝えられているのです。真の「反戦」とは戦争がはじまるときを知ることであり、戦争に至らないために絶え間ない努力を続けることなのではないかと、高畑は指摘します。

 話は「泣ける」映画へと移ります。感動して泣きたがる観客は「感動」に身を任せて理性や知性を放棄する。今仮に日本が戦争状態に陥ったとして、人々は日本が勝つように応援してしまうのではないだろうか。主人公が勝つ映画に「感動」するように。

 これは言い換えると「感動ポルノ」のような問題になるでしょう。僕が以前書いた記事で使用した「センシタイズド sensitized」という語にもつながります。あるいは共感性の問題とも言えるでしょうか。コジマプロダクションの『デス・ストランディング』においては「いいね」がプレイヤー間で交換され、またゲーム内のNPCは人とのつながりが断たれているために「オキシトシン」という愛情ホルモンを外部から摂取するようになります。(あまり詳しいことはわからないのですがALISなどの)代替通貨、仮想通貨としての承認、共感というシステムは思っているよりも近くにあるのかもしれません*1

話を戻しましょう。世界大会が放送されると命令されたわけでもないのに自国を応援してしまう。文中ではオリンピックの野球について言及されていますが、時事的な話に絡めると2020年オリンピックがはじまってしまえば否定する人はいなくなり、みな選手を応援するようになること。このような集団心理が大戦時にもあったと高畑は回顧します。戦争に懐疑的だった知識人もはじまってしまえば為政者に協力し、多くの人が理性と知性を眠らせてしまった。そして数少ない戦争反対者は牢屋に入れられた。

 最後に憲法9条の尊さに着地して文は終わります*2

 

 ここでは9条については述べません。以下はこの文を読んで感じた反戦アニメについての個人的な覚書です。

 

 さて、高畑は英雄を描かない監督として認知されています。それは時として宮崎駿との比較において、またある時は『ホルス』以来の傾向として。個人的にこの言説には賛成です。より厳密に言うなら、高畑は英雄的な、ひとつに収束されるキャラクターを嫌ったということではないでしょうか。ひとまず描き方の問題は無視して、アンやマルコ、チエ、最もわかりやすいのは多摩の狸や山田家の面々ですね。彼らはひとつことばには言い表せないような、一癖も二癖もある人物(狸物)たちです。それらは味とも言え、『チエ』や『ぽんぽこ』、『山田くん』の滋味深いユーモアはこういったところから生まれているのでしょう。

 『火垂るの墓』の主人公・清太もまた、英雄的ではないキャラクターのひとりです。到底感情移入のできそうもないその複雑な性格は、現実にいる少年そのものでしょう。

 対して『この世界の片隅に』の主人公・すずはどうでしょうか。彼女は「さらにいくつもの」存在として共有され、非常にイコン的でシンボル的です。一見英雄然としない彼女ですが、ときおり見せる力強い表情、そしてラストにおける「反戦」への慟哭は明らかに英雄的側面としてうつります。

  英雄的であるがゆえに観客はすずへと収束していく他方、非英雄的な清太は普遍性の中へと発散し、観客はその姿を捉えることができません。すずは生き残らなければならない存在ですが、清太は無数の死体のひとつなのです*3

 ということで主人公という対立軸で二作を比べてみました。もうひとつ、節子と晴美の関係も見ていきましょう。

 そのどちらも悲劇のヒロインであることは間違いありません。ただ、その悲劇の扱われ方が異なることは指摘されるべきです。

 晴美の場合、悲劇はドラマの大きな力点となっています。その存在は物語を進めるための動力であり、それはすずという英雄を語るために消費されます。それは宿命付けられた悲劇なのです*4

 節子の場合、悲劇はドラマの終点に位置しています。その存在は物語の中を漂い、最終的には消滅するのですが、それは物語が終わるというより大きな出来事に飲み込まれます。『火垂るの墓』におけるドラマの力点は節子になく、親戚の家を出る決意をした瞬間や、物語がはじまる前の母親が死ぬ箇所にあるでしょう。物語のダイナミズムにおいて節子の存在は希薄であり、節子が死ぬ必然性はないのです*5

 

 高畑は「反戦」のつもりで『火垂るの墓』を作っていないと語っています。たぶんユリイカの高畑追悼特集で読みましたが、『火垂るの墓』は「戦争映画」ですらないと断じた人もいます。(調べるのめんどくて、あいまいですみません)

 最初の話に戻ってきました。反戦アニメについてです。

 はたして『この世界の片隅に』は反戦アニメでしょうか。だいたい僕の言いたいことはわかると思います。否です。むしろ、その英雄的主人公やドラマツルギーは高畑の忌避するところの「泣ける」映画の要素に思えます。そして現にそういった観客が多くいるのです。

 SNSによる共感の暴力は、「好きな創作物は褒める」を「創作物はあまねく褒めなければならない」という潜在圧力へと変容させました。もはや批評は機能せず、それが再び機能することは今後ないようにも思えてしまいます。

 

 『この世界の片隅に』の続編がそろそろ公開されるようです。みなさんはハンカチを持っていきますか?

 

〈余談〉

高畑について最近よく調べているので、片淵と高畑の演出について少し。

レイアウトシステムを作った高畑は「リアリズム」の演出家として広く認知されています。それが庵野秀明押井守京都アニメーションに引き継がれ、いまの日本のアニメーションの基調をなしているという見方です。おおむねあっていると思いますが、高畑が晩年においてここでいわれている「リアリズム」=「見かけ上のリアリズム」「写実主義」と決別したことは指摘しておかなければなりません。それは彼の著作を読んでも作品を見ても明らかです。

「見かけ上のリアリズム」を捨てても「リアリズム」の演出家でありつづけた、という話については別の機会に記事にするとして、片淵もまた「見かけ上のリアリズム」を受け継いだ人物のひとりです。ひとりどころか、それを執拗なまでのこだわりによって作品を作り上げた人物です。

高畑はこの「見かけ上のリアリズム」はつまるところ虚構である自身を偽って本物に見せかけているとして非難しました。目指されるべきは嘘であるなかに隠れている本物であると。僕は高畑・宮崎の直系、いわゆるポストジブリとしての片淵という言説に待ったをかけたいのですが、それはこういう理由からですね。(そもそも高畑・宮崎というくくりがおかしいとか、ポストジブリの定義とかは置いておいて)

「見かけ上のリアリズム」は観客の没入感を高め、感動させやすいというようなことを高畑は述べています。その点で言えば、片淵は形式と内容が調和した素晴らしい作品を作ったわけです。

だからといって思考停止に褒めてはいけないよ、というのが高畑の警鐘ですね。僕も肝に銘じたいと思います。

*1:仕舞っちゃって確認できないんですが、高橋透の『文系人間のための「AI」論』にこの話がありました

*2:もともとこの文は2004年11月24日の映画人九条の会結成集会での記念公園をおこしたもののようです

*3:また、生き残ってしまう可能性も持った存在

*4:すずと径子との間の問題→解決のプロセスもハリウッド的なドラマツルギーです

*5:それが物語内において描かれる必要がないということ