共感の氾濫

 

「わかる」「それな」という言葉が若い世代で流行している。TwitterでもLINEでも至る所で人は共感を示している。

 

ネットは人を近づけたのだろうか。遠ざけたのだろうか。

 

SNSを彷徨うとき、僕らは果てない孤独を感じる。「そこ」にはなにかがあるようで、なにもない。

 

だから僕らは共感を多用する。

「わかる」「それな」「みんなも見て」「〜だからおすすめ」。暗闇の中にいるかのように右往左往と手を伸ばす。誰かに手を取ってもらうために。

 

繋がりを求めて暗箱に手を突っ込み、むやみやたらに掻き回したところで、手は空を切るどころか、中のものを傷つけ、己を傷つけるだけだ。

 

ネットは近すぎて遠すぎる。

 

帰り道、イヤホンを外しスマホをポケットに入れる。

呑んだくれるサラリーマンが目に入り、帰宅途中の生徒たちの笑い声が聞こえ、家々からは夕飯の匂いが漂ってくる。地面を踏みしめる感覚が立ち上る。あまいたい焼きを買う。

そこに孤独はない。

 

休日、山か海へ行ってみる。人はおらず、自然しかない。木々や水に囲まれているだけなのに、不思議と孤独は感じない。

僕らの周りにはいつも生(なま)の生(せい)がある。

僕らは繋がって生きている。

 

そこに共感はない。否定もない。

ただ「ある」だけ。それこそ生きるということなんだと感じる。

 

ネットは孤独だ。限りなく近いように感じても、どこまでも遠い。

 

人はひとりでは生きていけないから。

どうしようもなくなったときは、友達の、恋人の、家族の手を握ってみる。

川のせせらぎに耳を傾け、草の匂いを吸い込んでみる。

夜空を眺めながら、カップラーメンを食べる。

 

寺山修司はかつてこう言った。

 

「書を捨てよ、町へ出よう」

 

 

 

 

 

 

『詩季織々』感想 コミックスウェーブ作品のリアリズム

中共同製作『詩季織々』の感想です。話を延展してコミックスウェーブ作品(新海誠作品)についても。ネタバレ注意です。

 

 

まず、どこに向けて作られた作品なのかが一切伝わってこない。中国向けなのか、日本向けなのか。題材に対しアニメーションがあまりにも日本的過ぎるのが良くなかったです。

海外で日本のアニメーションにインスピレーションを受けた作品が増えている、とは言ってもまんま日本のトレースではありません。今話題の『スパイダーバース』だって日本の影響を大きく受けているでしょうが、ベースはアメリカ的な3DCGです。まるパクリをしたって劣化するだけで良い作品は生まれません。

本作はコミックスウェーブ制作なので厳密に中国のアニメーションとは言えませんが、むしろその中途半端さがマイナスになっています

 


「陽だまりの朝食」

一番ひどいです。新海的郷愁*1を百倍希釈したような薄っぺらさ。作画と美術の違和が没入を阻害し、甘ったるいポエムに辟易します。

美術がロケハンをしていないのか、それとも日本人コンテが悪影響したのか。中国らしさというものが何も感じられません

米粉ビーフンと訳すのにも疑問。日本で食されてるビーフンと、スープがありラーメンに近い米粉とでは全く違う料理です。っていうかカップ麺とかインスタント麺のこと米粉って言いますし。ラーメンと訳す方が適切でしょう。

祖母危篤の知らせを聞いて飛び帰り、到着した瞬間に死ぬというのがご都合主義過ぎて言葉を失います。祖母が物語の機能に堕している。

 


「小さなファッションショー」

コンテの未熟さが目立ちます。例えば、パーティで主人公がワインをあおるシーンで、主人公が俄かに画面外へ手を伸ばし、盆にのせられたグラスを取るクロースアップが挿入され、元のレイアウトで一気に飲み干す3ショットがありますが、ウェイターの存在が中間ショットで唐突に示されるため、キャラクターの認知世界と観客の認知世界に齟齬が生じ、不自然さが出てしまっています。齟齬を顕示し、観客の視線とキャラクターの視線の不一致を狙った実験作なら納得の演出ですが、エンタメ色の濃い今作ではコンテ考が足りないと言わざるを得ません。

 

 

「上海恋」

一番ましでした。前後のポエムに目を瞑れば唯一まともに見られます。

コンテ脚本共に監督のリ・ハオリンが担当しており、中国らしい薄汚さや貧乏くささが感じられたのが良かったです。カセットテープという小道具もユニークで心をくすぐります。

 

 

作中、ぼかしの撮影効果がよく使われていたので、それについての話を少し。

 井上俊之さんがこういう話をされていて、似たような記事(映画的なものからの開放 アニメーションは芸術か? - 夢の島思念公園 )も書いたんですが、近年の日本のアニメーションは映画的表現に引っ張られすぎているんじゃないのか。

 こういう話もありました。全部が全部フォトリアリズムに向かう必要性はないだろうと思います。

「小さなファッションショー」ではオーディションのシーンでは選考委員の「格」がぼかしによって効果的に表現されていましたが、それ以外の顔のクロースアップでのぼかし等は必要性を感じられません。しばしば写真初心者が「ぼかせばいいってもんじゃない」というアドバイスを先人からもらうことがありますが、似たような話ではないでしょうか。

 

上の例程度ならかわいいものですが、フォトリアリズム志向が画に弊害を生み出している場合もあります。三作に共通することですが、背景のリアルさに対して脚本のご都合性やアニメーションのローテクスチャーがミスマッチしている。写真加工等によって描かれた写実的な背景美術に対して、アニメーションのテクスチャが粗いので、アニメーションを「乗っけた」ような違和感が生まれてしまっているのです。

これはコミックスウェーブ作品の特徴と言ってもいいですね。『言の葉の庭』では、植物の反射光まで計算してキャラクターに彩色をするといった工夫によってテクスチャの質感をアップさせていましたが、『詩季織々』ではそのような工夫も感じられず、違和感が取り残されています。『君の名は』もこの点では『言の葉の庭』に大きく劣っていると思います。

 

ただ、フォトリアリズムを超えた表現というのも考える必要があるでしょう。『秒速5センチメートル』の「コスモナウト」や『君の名は』では、デジタル写真的な自然美、風景美というのが全面に押し出されています。それはもはやリアルではなくファンタジーに到達し、一種の幻想空間を作り出しているのです。自然ドキュメンタリー番組を見るときのような神的な感動がそこにはあります。

ここにフォトリアリズム方面でのアニメーションが目指す道というのが見えてくるのではないでしょうか。*2

 


監督が中国人なのにスタッフが日本人だから画にも物語にもまとまりがないというのが総じて目立つ欠点です。まだ見ていないので出来の方はわかりませんが、『NEMO/ニモ』も製作で揉めに揉めたそうですし、共同製作で成功した例があるのか興味がありますね。

*1:過去の不可逆性。罪の意識。都市と田舎。初恋あるいは失恋。こういった新海誠特有のノスタルジーはもともと好みじゃないです。

*2:とは言っても、この分野ではアメリカの大作3DCGアニメが何百歩も先を行っているので、険しい道ではあるでしょう。まだ見てないですが、『スパイダーバース』なんかすごそうですね。

親しい人が死ぬのがひたすら怖い

 

僕は両親が中国人で、二人が日本に移住してから生まれた。

 

僕自身は日本生まれで日本育ち。中国語もわからない。親戚はみんな向こうにいて、会えても一年に一度長期休暇の時くらいだった。それも幼い時の話で、今では数年単位でしか会っていない。

 

だから親戚といってもイマイチ親近感がないし、正直会っても全然嬉しくない。赤の他人に毛が生えた程度の認識だ。

そのせいか、祖父(父方)と祖母((母方)が死んだ時もなんも思わなかった。葬式も参加できなかったし、テレビのニュースとなんも変わらなかった。

 

僕は今、そのことがすごく怖い。

 

一般的な日本人は、大人になるまでにたくさん親戚付き合いを重ねると思う。その中には葬式もあって、物心つかないうちから死と接する経験がある。

祖父母と同居している世帯であれば、「そばにいた人がいなくなる」経験をした人もいるはず。

 

僕にはそれがすっぽり抜け落ちてる。

 

両親の交友関係は、向こうのは切れてこっちのは狭いから家ぐるみの付き合いというのもわからない。だからもちろんその方面でも葬式に参列したことがない。

 

僕は葬式をすごく特別視してる。僕が一切経験したことのないもの。全く理解が及ばないもの。遺体を前にするというのは、一体どういう感覚なんだろうか。

 

昨年の5月、高畑勲のお別れ会に行った。死者を祀る場というのは初めてだった。高畑監督に深いリスペクトを抱いていることもあったし、そういう場を経験したいという思いもあった。そこでも死は実感できなかった。というよりも、高畑監督に会ったことも話したこともない僕が、親族や宮崎駿ら近しい人間を差し置いてどうこう言うことはできないと痛感した。ニュースを聞いた時は絶句する程の衝撃を受けたのに、遺影を前にした時は何の感情も浮かんではこなかった。

 

また、昨年の3月11日、東日本大震災の被災地も訪れた。僕はずっと被災地に行きたかった。そこに行けば、死がどういうものか分かると思った。

でも、結局死については何も分からなかった。ただ、だだっ広い荒地があり、復興が懸命に続けられていた。大槌町旧庁舎前の献花台で泣いている遺族の姿が目に焼き付いた。

 

似た光景を覚えている。父方の祖父の墓参りに行った時だ。確かすでに一周忌も過ぎた頃だったが、その時初めて墓に訪れた。一緒に来た祖母がお墓の前で泣き崩れた。見たこともない姿だった。言葉は全然わからなかった。あの衝撃が今も僕の中に残ってる。

 

その祖父が死ぬ少し前、たまたま向こうに行った。祖父の見舞いにも行った。中国の薄暗い病院で、することもなく暇だったと思う。もう余命少ないことがわかっていた。だから、父が伯父と一緒に祖父の体を洗う事になった。最後の孝行として。

男の子なら理解できると思うが、父親の体を洗うなんて1兆円もらったってやりたくない。僕には父の行為が異常に思えた。人が死ぬということの異質さをまざまざと感じた。

 

死がわからないことがひどく怖い。

2018年8月13日、声優の石塚運昇さんが亡くなった。どうしようもなくなるくらいショックだった。何の因果か、ツイッターで訃報を知る直前までポケモンの初代アニメを見ていた。

今もまだ、石塚さんの声を聞くのが辛い。頭がガンガンしてくる。同時に、石塚さんの声の暖かさを強く感じる。

親しい人を失くした時、僕はどうなってしまうんだろう。それが怖い。

死がわからないまま、死んで欲しくない人ばかり増えてしまった。

 

今、時の流れを意識する時期にある。僕も周りも新しい方向へ進んでいる。

だからだろうか、最近このことについてまた考え出すようになってしまった。

 

時は決して止まらない。この先、必ず死を経験することになる。その時、いったい僕はどうすればいいのだろう。

ずっとレベル1のままだ。目隠しされ、どこから棒が来るかわからない。

不安、恐怖。

逃れられるなら逃れたい。僕より先に誰も死んで欲しくない。

 

今日は3月11日。死に寄り添う日。みんなは何を考えているのだろうか。

声優論考①:演技論

優れた声優、優れた演技とは一体何でしょうか。

アニメーションを論じる手法は多くありますが、声優という切り口からアニメーションを論じた人はあまり見かけないように思います。

僕がアニメーションを好きになるきっかけに声優の存在がありました。誰もやったことないんだし、やってみようか。そんな試みです。論考の中心はアニメーションにおける声優ですが、吹き替えやナレーションも守備範囲に含めた内容にしていくつもりです。

 

今回は声優の演技について考えていきたいと思います。感想文と評論の問題のように、演技となると途端に頭ではなく感情で理解したがる人が多くなります。役者も観客も、演技をする上で「感情」を最も重要だと考えるけども、実は「技術」が最も重要であるのではないか、という話です。

 


 

○演技の意味

 

演技の辞書的な意味は以下になります。

演技(えんぎ)

①俳優が舞台などで芸を演じて見せること。また、そのわざ。「悪女役を巧みに―する」

体操競技フィギュアスケートなどで、一定の方式に従って、選手が行う技。「模範―」

③いかにもそれらしく振る舞うこと。いつわりの態度。「彼女の涙は―だった」

「演技」の字義的な原義は①です。つまり「技を演ずること」(漢語のレ点、演技)。技は芸と言い換えられます。人前で芸を披露することが本来「演技」が意味するところであり、その中には落語や文楽、歌舞伎、能狂言、日本舞踊、オペラ、バレエ、ダンス等あらゆる芸能(performing arts)が包摂されています。いかにも、演技の英訳はperformanceなのです。artの原義が技術であるというのはみなさん中学高校で習ったことと思いますが、artistが技術を披露することが「演技」の元の意味ではないかと考えられるわけです。

 

②は競技用語として①を派生させたものですね。

 

③は態度の話です。泣くフリ、怒ったフリ、すねたフリ。我々が日常においてそれらしく振る舞うこと、嘘をつくことを意味しています。

ここで間違えてはならないのは、いつわりの「態度」である点です。

何かの「役」を演技することは①の意味に含まれます。これは技術によって保証されます。

泣くフリをする、怒ったフリをするという「態度」を意味する③は、我々人間の多面性を指しており技術の話は含まれていません。接客の時、電話の時、家族といる時、友人といる時それぞれで変化する「態度」を、俳優が技術を用いて「役」を演じ分ける意味としての「演技(①)」に見立て、意味を一般化したと考えられるでしょう。

 

①において「演技」という言葉を使うとき、それは「(artistが)技術を披露する」ということを意味し、③においては「私・君・彼がウソをつく」ということを意味します。

この、技術かウソか、主語の属性は何かという部分は声優の演技を客観的に評価する上で重要な話なので、覚えておいてください。

 

 

○演技の技術

 

声優の技術とはなんなのか。

 「演技」における技術とはpattern(型、類型)のことです。声の演技だと、二枚目なら鼻にかかったような声、幼児は舌っ足らずな声、老人は歯が抜けたような声などなど。

演技がパターンであるわかりやすい例は「落語」でしょう*1。落語は演目が決まっており、多少のアドリブはあると思いますが、アマチュアからベテランまで同じ(台)本を演じます。演じる役柄、セリフ等々の型がすべて決まっているわけです。落語家はみな、同じ本を何度も読み込み、練習し、体に染み込ませていきます。さながら職人の伝統技術のように、どの落語家も師匠から教わった演技を完璧にこなせるように稽古するのです。

芸能にはみな稽古があります。落語、歌舞伎、オペラ、バレエ。芸(技術)は習うものであり(「盗む」場合もある)、決して感性、感覚のようなあいまいなものではありません。飲み込みが早いという意味の「センス」はありますが。どの芸能も基礎を積まなければ土俵にすら立てません。

声優も然り。声の技術とは、このパターンの幅と精度に尽きるのです。*2

 

 

アニメーション、特に深夜アニメのキャラクターはほぼパターン化されています。アニメーション自体が記号的であることも相まって非常に類型的です。それに対して適切なパターンの声を当てるのがアニメーションにおける声優の仕事であるわけです。元気なキャラ、クールなキャラ、ツンデレ、幼女、老人、キチガイ系などといった属性に合わせて声や話し方を変えることが声優に求められる技術です。

吹き替えもまた一種のパターンでしょう。うまく言葉では表せませんが、吹き替えっぽい演技というのがありますね。ボイスオーバーっぽいとも言えます(意味は一緒か)。すこしため気味で、息が多いのが一つの特徴でしょうか。

声の仕事として外せないのはナレーションです(有名な話ですがアニメーションは声優の仕事のごく一部です)。個人的にストレートナレーションの巧拙がその声優の力量を知る基準だと思っています。いうなれば剣道や野球の素振りのような、基礎力みたいなものです。これが下手だとどうしようもない。発声、滑舌、調子、アクセント。声の技術の「きほんのき」です。

 

上記のように声優の「演技」にはすべからく技術が要されます。

 

この演技のパターン、技術力が優れた人物といえば、やはり山寺宏一でしょう。

まさに彼は自分の声をさながら機械のようにパターン化し、高い声はこう出す、低い声はこう出すというアプローチをしています*3。山寺が大学時代落研に入っていたことを考慮しても、やはり型に対する意識があると考えられます。

山寺はものまねタレントとしての一面も持っています。ものまねと聞くと③の「それらしく振る舞う」意味を思い浮かべがちですが違います。(ここで?と思った方はもう一回演技の意味を読んでください)

ものまねは技術力です。雰囲気で真似るものまねタレントはいません。彼らは対象を緻密に分析し、ひとつひとつパズルのように組み立てて真似をしているのです。*4

 

林原めぐみ*5は、イタコ声優という二つ名を持っているそうです。イタコというのはつまり、キャラクターが自分の中に降りてくる、演技ややらせではなくキャラクターそのものになっているのだ、ということを言いたいのだと思いますが、おかしいです。

彼女も明らかに演技の型、技術を持っています。綾波型(寡黙)、リナ型(溌剌)、ムサシ型(おばさん)あたりがベースになっており、あとは組み合わせやちょっとしたアレンジでしょう。誰がイタコとか言い始めたのか知りませんが、キャラクターの要素(型)を掴む感性と演技の集中力に秀でているため、そういう呼称になったのだと思われます。決して林原が下手な声優だと言っているのではありませんが、役に入り込むという言葉は聞こえはかっこいいですが、とどのつまり演技に集中している、それだけのことを言っているに過ぎないのです。(演じる上でそれもまた大切なことではありますが

 

先日、園崎未恵ツイッターで演技の持論を語っていました。

 

その筋肉を操るというのが声色を操るということだろう、とツッコミをいれるのは野暮でしょうからここで指摘しておきます。

かっこよさげに語っていますが、彼女が述べているのも要は技術力の問題です。彼女に型という言葉をぶつけると猛烈に反発される気がしますが、ここらへんは方便、ものの言い方です。声を出すという行為を構造的、技術的に理解することが声優に何よりも求められることです。

 

優れた声優というのは総じて多彩なキャラクターを演じ分け*6ます。神谷明千葉繁うえだゆうじ高山みなみ小山茉美(僕の見識の中から列挙しているので偏りはあると思いますが、あしからず)。演技の幅は経験と練習量が物を言うので上手い人が年配なのは当たり前ですが、いかに多くの型を持っているか、どこまで型を極めたか、これこそが声優の演技力(技術力)のバロメーターになります。もちろん彼らはアニメーションのみならず、吹き替えやナレーションも巧みです。

ちょっと僕の好みの話になりますが、小山茉美のストレートナレーションは一級品です。幸い、報道ステーションで誰でも聞くことができます。ぜひご一聴あれ。(本来ならばこれぐらいのナレーションが出来るようになってから実力派と言いたいですね…。)

 

 

 ○技術と感情

 

演技にはなぜパターン、技術が必要なのでしょうか。

それはパターンがフィクションにおけるリアリティの指標だからです。このリアルとは「それっぽさ」であり、現実そのものではありません。フィクションは現実ではないので。

フィクションはどこまでいっても虚構の現実です。「それっぽい」だけで真のリアル、つまり現実ではない。真のリアルに達してしまうと、それはもはやフィクションでなくなってしまう。

 

これはフィクションの抱える永遠のジレンマです。

 

フィクション中のキャラクター自体が虚構のものであり、現実には存在しない。存在自体がリアル(現実)ではないのです。フィクションのキャラクター(性格)というのはそれを認知し解釈する我々の中にしか存在せず、それは厳密には個々に違ってくる。だからこそ、共通の解釈の軸になる類型化した演技が必要になるわけです。

 

このジレンマを超越する例外があります。『火垂るの墓』の節子と清太(白石綾乃辰巳努)や『この世界の片隅に』のすず(のん)です*7

彼らの共通点は「演技をしない」ことです。彼らは演技をしていません。まったくもって技術を披露していない、役を演じれていないのです。それもそのはず、白石綾乃なんかは当時未就学児童で技術なんか望むべくもない。残りの二人も技術的にはあまりに未熟。それでも(清太はそれほどでもないですが)、節子とすずはおそろしいほどにキャラが生きている。「フィクション」であるはずなのに、まるでキャラクターが「現実」に存在するかのような説得力を持っている。

なぜあれほどにまでキャラクターが生き生きと立ち表れてくるのか。それは、前者は役とほぼ同年齢で関西出身であったこと、後者は役と演者の性格(キャラクター)が奇跡的なほど一致していたからだと推察されます。つまり、ふたりとも極めて素に近い状態であったわけです。

 

究極にリアルな演技とは「素」であり、それは演技をしないことです。

演技における真のリアルを求めるとそれは演者本人になってしまう。がしかし、そもそもリアルの素地になるキャラクター自体が虚構であります。現実に存在しないものなのです。だから、素になるということは虚構の存在・キャラクターでなくなるということを意味します。素になった時点でそれはもうキャラ(役)でなくなってしまうのです。

 

このジレンマからは逃れられません。

18歳の女子高生の役を最も「リアル」に演じられるのは18歳の女子高生しかいない、ということ。でもそれはフィクションでも演技でもありません。

役者は限りなくリアルに近いキャラクターを演技するしかなく、そのためにパターンといった技術が求められるのです。

 

これは「演技」を感情とか解釈で理解しようとすること、その延長にある「キャラクターになりきる」という考え方への戒めでもあります。

 

キャラクター(役)の感情なんてものは存在しません。キャラそのものが存在しないものだから。あくまでもそれは我々の「解釈」です。

 

クレショフ効果という心理作用があります。無表情の人の顔のショットがあったとして、それは前後のモンタージュによって無数の表情、意味に発散していくという話。つまり、感情を読み取るというのは個々の解釈ということです。ある人には笑っているように聞こえても別の人には泣いているように聞こえるかもしれない。

「演技」をする上で役の感情を解釈することが大切でないと言っているわけではありません。ただ、それが思ったとおり観客に伝わることはない。なぜなら観客も自らキャラクターを解釈しているからです。

 

声優を志す人(がこれを読んでるのか?)には耳が痛い話かもしれませんが、オーディションにおいて役をどのように解釈したかを説明する時間なんてありません。させてもらえません。どんなに気持ちを込めたって伝わらなければおしまいです。

プロになればわざわざ記者とカメラマンが出向いて役への思いなどを取材してくれるかもしれませんが、そんな甘い話は普通ありえないです。

客観的判断材料は常に技術なのです。

 

そもそも役の感情を理解するにも限界があります。幽霊の気持ちを理解することができるのか。愛する人を失ったことがない人にその感情がわかるのか。ヘテロセクシュアルの人がLGBTの苦痛を味わえるのか。答えはノーです。どこまでいってもそれらは勝手な解釈にしかならない。

だからそれをやめろと言っているわけではありません。そこを基準にするなという話です。

 

イベントやラジオやテレビで、声優が「あのキャラの声をやって」と言われることがありますね。そして、そのとおりに声優は披露する。ではそのとき、声優はそのキャラクターになって、感情を理解して声を出しているのでしょうか。 「××のキャラで名前を呼んでください」とリクエストされたとき、声優はそのキャラが平成○年の日本に来てリクエストした某さんに呼びかけるときの気持ちを解釈しているんでしょうか。

とてもそうとは考えられません。まず常人にとっさにキャラの気持ちを考えてなりきって話すことなんてできるわけがありません。

だから技術になるんです。 こうやって声を出すというのが決まってくる。それによって、瞬時の使い分けが可能になる。

 

感情を理解し、気持ちを理解し、「役になりきる」ことを目指す人がいます。

でも、その役になりきっているのなら、なぜ再演するときに声が変わってしまうことがあるのか。所詮「役になりきる」という言葉は幻想なのです。「役になりきる」と言いつつ多くの人がやっているのは自分の感情の焼き直しです。知らない感情を表現することなんて不可能であるのにも関わらず、「演技」を曲解し、感情とか気持ちといったあいまいな自己基準しか持たないから同じ声が出せなくなる。固有名詞は出しませんが、期間が空くとキャラの声が変わってしまう声優がたくさんいます。僕から言わせれば、そんな人達はプロと呼ぶに値しない。

 

感情を解釈する、役になりきるという心構えは必要ですが、技術が先立たないと本末転倒です。

 
俳優が声優をやること。僕はこれには大いに賛成します。声優に求められるのは声の技術であって、「声優であること」ではありません。マーケティングの話はしません。)

 

例えば『ミュウツーの逆襲』でミュウツー役を演じた市村正親。『リトル・マーメイド』のアリエル役を演じたすずきまゆみ。『ハウルの動く城』で荒地の魔女役を演じた美輪明宏。三人ともそこらの声優よりも素晴らしい演技を聞かせてくれました。

彼らには声の技術の素地*8があったため、声優としてもあれほどの演技ができたのです。口パク合わせなどの小手先の技術で満足している新人声優にはぜひ見習っていただきたい。

 

 

○声優と観客

 

芸ごとというのはどこまで極められるかという自分との闘いであります。しかし、声優は演技を観客に披露しなければならず、そして、披露すれば観客から反応が返ってきます。

これが非常に難しいところで、向上心が希薄で他者に動機づけを求めてしまうと、観客が適切な評価を下さない場合に著しく演技の質が低下してしまうのです。

つまりは、自分で目標を持って演技を磨けない人、観客の反応を気にする人は、観客の想定内の演技しかできず、さらには観客におもねるのが癖になってしまうということです。

アニメの主な視聴層が演技という言葉を理解できていないのも大きな問題です。多くの人が③の意味で演技をとらえ、感情論こそ本物であると信じ込んでいる。

 

観客が③の意味を役者の演技に当てはめるとどうなるか。声優は観客の望むものを提供しようとし、雰囲気で演じること、なりきって演じること、技術ではなくウソで演じることが横行し始めます。

声優が「狂ったようなフリ」をすると、こぞって「演技すげー!」と言ってしまう。そこでは「声優(artist)」として「技術を披露する」ことではなく、「彼・彼女」として「ウソをつく」ことが評価されてしまっているのです。

 

声優を役者として考えず、固有名詞でとらえる。イベントやラジオなどで「その人」を知り、そこからどれほど離れているか、「ウソをついて」いるかで演技の上手い下手を判断しているのです。だから「狂ったフリ」をするとみんなが「演技うまい!」と言ってしまう。それは「その人」が普段全く見せない一面だからです。

面白いことに、俳優も含め「演技派」「カメレオン俳優」と言われる人は揃って「おとなしい」人です。それはなぜか。普段感情を見せないので、作中で「フリ」をするとみんな驚くから。すごい!あんなこともできたのか!普段と全然違う! おとなしいというのはウソがつきやすい状態なのです。

 

近年の若手声優の中に、技術を身に着け、きちんと演じ分けができる人物はどれほどいるでしょうか。彼らは役者ですらありません。役を放棄し、「演技(①)」することをやめています。いかに普段の自分からウソをつくか、それが演技だと思い込み、成長性のない感情論にのめり込んでいるのです。

ウソをつき続けた結果が、「演技をしているフリ」です。もはや役柄もなにもなく、その人が「演技をしているフリ」をする。演技っぽいことをする。普段と違えば何でもいいやとばかりに、ウネウネと話したりわけのわからない奇声を出したり。聞くに堪えないです*9

 

代表的な例が沢城みゆきです。アニメファンに演技が上手い人と聞くと必ず名前の上がる彼女ですが、実際のところは「演技しているフリが上手い」人です。

そんな沢城の演技が理想とされ、若手もそれに倣うため画一的な演技に聞こえてくる。セリフに「演技をしている」という含みを持たせる。

 

林原の話でも触れましたが、「演技をしているフリ」を志向する感情論者*10たちが揃って口にするのが「キャラになりきる」とか「キャラそのものになる」という言葉です。キャラクターの感情を完全に理解し、キャラクターと同一化することが最も優れた演技であると考えているようです。

しかし、先にも述べましたがキャラクターというのはそもそも虚構の存在です。それがあたかも現実に存在する人物かのように取り扱うこと自体、前提から間違っています。

舞台において役者は現実(披露する自分)と虚構(役柄)の二重性を内包しています。技術を観客に披露する、という意味の「演技」はその言葉の内に技術(虚構)と観客(現実)を含んでいるのです。元来メタ的な視点を包含していたはずの言葉を一元的な枠に落とし込めてしまう行為が豊かと言えるでしょうか。

 

 

センシタイズド(sensitized)という言葉があります。センシティヴ(sensitive、感じやすい)ではなくセンシタイズド(感じやすくされている)。感受性が豊かなのではなく、感受性が豊かだと思いこんでいる(感受性豊かでありたいという欲求)。作品を見る前から自分は泣くと感じている。心が感じやすい状態にあるのではなく、感じやすい状態にあろうと努力している。場合によってはシンパシティック(交感的、共感的)と言い換えられます。

現代の多くの人間が創作物に対しこのような姿勢をとっていると思います。センシタイズドでありながら、自分はセンシティヴであると思いたい。そうすることで自尊心を、あるいはsnsで他者に顕示して承認欲求を満たす。僕も例外とは言えません。人間誰しも持ち合わせているプライドで、ネット社会がそれを助長しただけのことです。

 

「声優の演技に敏感でありたい」という視聴者の潜在的な欲求に呼応するように、わかりやすく「演技するフリ」をした声を出す。それが今のアニメーション声優です。

果たしてそれは健全なことなのか。僕はそうは思いません。

声優も人気商売であるため、100%実力世界であることは絶対にありえません。ビジネスの支配力が強く、運の割合がほとんどだと言っていいでしょう。ただ、そんな中で我々観客すらも正当な評価を下せなくて良いのでしょうか。余計なタレント性ばかりに目を向けて声優本来の技術力をないがしろにするのは、彼らに対する侮辱ではないのでしょうか。

いまどき、黒子に徹しろだとかテレビ出演するなだとかは言いませんが、本当に大切なことを忘れているのではないかという思いは日増しに強くなっています。

 

声優も観客も、「演技」を今一度見つめ直し、技術の重要性を認識すべきだと僕は思います。

 


 

以上です。読んでくださった方ありがとうございました。

反論はどしどし待ってます。具体的な作品に沿った話はまたゆっくり書きたいと思います。

(2019/03/17 改稿)

 

※追記 2019/03/11

3/7の福山潤ゲストのアフター6ジャンクションは声優の技術的アプローチについてプロが語っている好例です。

特に、コーナー開始5分〜10分のときに話されてるルルーシュの高笑いについて聞いていただいた方がより僕の論旨を理解していただけると思います。要約すると、TVシリーズのときは筋肉の使い方が未熟で、ルルーシュの低い声のまま高笑いができなかったが、劇場三部作ではそれが可能になっている、という話です。

感情を込めるだとか、キャラになりきるとかいう非論理的アプローチでは達成できない演技があるといことですね。

 

*1:演技の稽古でよく使用される「外郎売」は落語の演目ですね。

*2:※追記 2019/03/10
役のパターンを構成する技術の例。間、口調、アクセント、トーンの高低、キーの高低、息づかい、他。

*3:2017年に放送されたテレビ朝日系の特番『人気声優200人が本気で選んだ!声優総選挙3時間SP』参照

*4:清水ミチコ松任谷由実とドリカムの作曲法をものまねしながら解説する動画がYouTubeに上がってるので、興味ある人は見てみてください。

*5:林原もだったと思うんですが、台本を読まないで収録に臨むタイプの声優が(俳優も)一定数いるようです。役の生の反応を見せたい、凝り固まった演技をしたくないという気持ちでそのようなアプローチを取っているのだと思いますが、果たして台本を読まないことが「役の生の反応」を引き出せるのでしょうか。僕にはそれは「役者本人の生の反応」に思えてなりません。もちろん、芝居は他者との対話であり相手の演技を見つつこちらの演技を返すことが重要であるので自分の演技に手一杯であることは望ましくないですが、台本を読み込み技術を磨いてきちんと自分のものにした上で掛け合いをする方がはるかに豊かな芝居になるのではないでしょうか。(ちなみに、芝居と演技は混同されがちですが、芝居の第一の意味は演劇です。今では演技の意味も含まれるようになりましたが、意味を使い分けるため個人については演技、劇全体については芝居を使用しています。)

*6:よく言われる「自然な演技」というのは、「自然体のような」型の演技ということです。肩に力を入れず、過剰でない演技をすること。「自然風」の演技とも言えるでしょう。それは古典的ながっちりした演技(落語や太夫なんかはずいぶん過剰ですね。それがその分野での型です。)に対する使い分けのひとつに過ぎません。過剰な演技と過剰でない演技の使い分けなのです。

*7:最近見た映画だと、『じゃりン子チエ』のチエなんかもこれに近い気がします。もちろん、僕の認知していない範囲でも例はあるでしょう。

*8:市村は劇団四季、すずきは音大声楽科、三輪は歌手からキャリアをスタートさせています。広大なホールで歌うためには感情うんぬんよりもまず、とてつもない声の技術が必要であることは想像に難くないでしょう。

*9:イメージわかない人がいるかもしれないので具体例出します。探せば動画あると思うので聞いてみてください。狂ったふりしてるだけ:ペテルギウス(リゼロ)全般、ウネウネ:花江夏樹四月は君の嘘)、奇声:佐倉綾音ごちうさ)。

*10:感情を重視する人たちはきっと、アイドルアニメの新人声優の演技を評価し、クレヨンしんちゃんこおろぎさとみ(ひまわり役)の演技をどうでもいいと思うでしょう。しかし、赤ちゃんの声をあれほど忠実に再現できる声優がどれだけいるでしょうか。こおろぎさとみの技術力こそ声優が目指すものではないのでしょうか。アイドルアニメの新人声優の演技に心打たれる人は、演技ではなくストーリーに、自分のキャラ解釈に感動しているだけなのです。

映画的なものからの開放 アニメーションは芸術か?

今回はアニメーション研究についての雑記です。

 


 

映画は絵画芸術と比べられることもありましたが、やはり本質としては写真に近いものではないかと思います。もちろん写真と絵画の関連はありますが。

僕も勉強途中なのであいまいな直感でしかありませんが、パースの記号論やバルトの写真論を素地とした研究の発展性を見るに、映画は写真との関連を避けて通れない。写真史を考慮しても同様です。

 また、改めると単純な話ですがそもそもの技術として映画は写真と近しい。

 

ではアニメーションに近しいのはなにかというと、絵画であるわけです。

 

 

かつて映画が第七芸術であると宣言されたように、僕はアニメーションを第八芸術と宣言したい。

 

ではアニメーションが真に芸術たりうるためにはどうするべきか。それにはまず、映画的なものからの解放が求められるのではないかと考えます。

現状、明らかにアニメーションは映画に隷属しています。映画の文法に則り、映画祭ではアニメーション部門としてひとくくりのジャンルに押し込められている。アニメは子供のものだという考えはいまだ強固なのです。

 

原理を考えれば、アニメーションが映画にとらわれる必要はありません。

エミール・コールの『ファンタスマゴリ』やノーマン・マクラーレンの『シネカリグラフィ』、フレデリック・バックの『クラック!』らが見せるドローイングの根源的なよろこびを直截表現することがアニメーションが目指す道ではないのでしょうか。

 

たしかにアニメーションにおけるフォトリアリズムを突き詰めることもひとつの表現であります。ただ、写真を加工した背景にロトスコをはめ込んだ作品をアニメーションの究極と言って良いのか。映画の真似事するだけで良いのかという疑問がどうしても僕の中には残ってしまうんです。

 

 

僕は、映画は引き算の芸術でありアニメーションは足し算の芸術であると考えています。CGIの発達でその境界が崩れてきてはいますが、根っこは変わっていません。

映画はカメラ構えた時点で否応にも事物が映し出されます。そこからいかに引いていくかが映画づくりの醍醐味のひとつです。映画は編集によってほぼ必ず不要なショットが生まれてきます。

逆にアニメーションは元は一枚の白い紙でしかありません。そこにどう足していくかがアニメーションづくりなのです。

 

多分に私見が入りますが、優れた映画は静かなものが多い(気がします)。「デザインは引き算だ」とは誰が言った言葉か知りませんが、それ自体猥雑で混沌とした現実を、切り取り削ぎ落としたのが映画です。

アニメーションは正反対を突く。創造性の洪水を起こし、見るもの皆を飲み込むような画を作り出すのがアニメーション的想像力なのではないでしょうか。『ピノキオ』の波、『AKIRA』の鉄雄の膨張。無限に広がる創造性こそアニメーションの原点です。

映画と違って、アニメーションは何でもできるんです。描けば何でも表現できる。それなのになぜ映画の真似、ヒット作品の真似ばかりするのでしょう。(もちろんマーケットが絡んでることぐらいは承知してます

 


 

アニメーションが映画に隷属するのにはひとつ大きな要因があると思います。シネフィルに対するアニメファンの見るに耐えない教養のなさ。その延長として、アニメーションが研究分野として確立されなかったことです。

アニメーションを第八芸術と宣言することは、アニメーションを学問として確立することも意味します。これは決して他人事ではなく、アニメファンひとりひとりの意識から始まることだと思うのです。

 

批評性のないアニメーション批評の問題点について : Gomistation☆

 先日、上記事を読みました。僕は彼に賛同します。芸術を芸術たらしめるのは芸術家ではありません。芸術家だけではなされないと言った方が適切でしょうか。常にそれを見つめる存在が必要なのです。

 

好きなものを好きと言うことが賞賛される時代に、嫌いなものを嫌いと言うことを僕は賞賛したい。創造性は正の感情だけでなく負の感情からも生まれうるのです。

僕は怒っている人見るのが好きです。何かに怒りを抱いている人。こんな作品のどこがいいんだと憤る観客や、自身のスランプや共同制作者に不満抱くクリエイター(宮崎駿が怒ってる動画とかよく見ます)。彼らの怒りはアニメーションへの誠実さの裏返しだから。

 

今回僕の話は絶対的なものではないです。ただ、アニメファン個々人が、ただ無思考にエサを貪り食うのではなくアニメーションのあり方を少しでも考えていけば、ちょっとずつでも良い方向に向かっていくのではないかと思うんです。

大学においてのアニメーションの研究は無残と言っていい状況です。映画が本当に羨ましい。あれほどに体系化され、研究者にも恵まれている環境が素直に羨ましいです。

アニメーションにはまともな文献すらありません。学者も在野レベルが個人プレイを行うだけ。

 

山本寛という監督がいます。過激な発言で方々から非難を浴びていますが、エッセンスは間違っていないと思います。いわゆるオタクはアニメを壊す。僕もそう思います。山本寛を全面支持するわけではないということを付言しておきますが。

 

そして同時にこうも思うんです。じゃあオタクがアニメを変えようじゃないか、と。