ジェンダーと「私」

 ナインティナイン岡村隆史が女性蔑視で炎上しているのを受け、ジェンダーについてぼんやりと考えています。僕自身の視野の変化か、それとも社会の変化かはわかりませんが、ジェンダー論はここ数年トレンドで、その話題に触れない日はないと言っても過言ではないかもしれない。

 岡村については何も詳しくはないので、ここで書くつもりはありません。*1ただ、特に矢部浩之の発言以降により盛んになっているジェンダーの問題について、僕が以前から感じていた違和感を書いておこうという記事になります。

 

 ジェンダーを語るときには「男」と「女」という主語が用いられる。僕はまず、そして最も、ここに違和感を感じずにはいられない。多様化の時代、個人主義の時代というのは現代の共通認識であるように思うが、そのような時代において、カギカッコで括られるような主張は果たして有効なのでしょうか。

 もちろん、有効であるから使われるのであって、いまだ「大きな物語」は機能しているというのが僕の個人的見解です。しかし、個別化の道の歩むことを決めた歴史に抗い、前時代の価値観に縛られることは不毛に思えてしまう。

 きちんと資料にあたっているわけではないので、僕個人の勝手な認識として捉えてもらいたいですが、ジェンダーレスが目指していることは「男」「女」の破壊であるのではないか。「女」であるmaleもいて、「男」であるfemaleもいて、「男」でも「女」でもないmale, femaleがいる。最終的にジェンダーとは「私」に収束される。相似であったとしても、絶対に合同ではない無数の「私」へとジェンダーは分化していく。ジェンダーレスはその多様性に向けあらゆるカギカッコを壊していくのが目標なのではないのか。であるならば、「おじさんは~」「おばさんは~」という発言はどこまでいっても先入観を打ち破る一太刀にはなりえません。

 

 議論が活発になるSNSの構造が、ひとつの枷ではないかと思います。SNSは「私」を語れるようであって、そうではない。本来的には「私」を語れますが(そうしている人もいるが)、そこではネットリテラシーというためらいの下に匿名性が付与され、あるいは強迫的な承認欲求(共感性)によるゆがみが生じてます。いいねの多さは、「私」の対岸にあるのです。

 よくあるSNSでのジェンダー論争としては、「夫が~」というような発言が拡散され、共感なり反感なりが広まっていく形になると思います。僕が思うのは、この「夫」も発言者の「私」も、極めて個的な存在であり、匿名的に消費されてはならないということです。「私」には「私」の数だけの背景(context)があり、それをないがしろにすることこそ、僕が絶対に認めたくない行為です。

 難しいのは、人間が社会性を免れることができないということ。共感や攻撃はどんな蜜よりも甘いです。だからこそ、いまだ「大きな物語」は機能している。しかし、最大公約数による分断は、たとえば池袋の交通事故や、ウイルス差別、そして「男」と「女」のような戦争を招くだけです。僕らはみな素数です。公約数は1、人間であることだけ。

 

 コロナ以前、以後は必ず語られるでしょう。少なくとも、同時代的に感じているのは、大きなものにすがりたくなる「私」の弱さ、「強い個人」となることの難しさです。東日本以来、肌で感じる「非常時」は二度目です。あの時と根本的に違うのは、目に見えないこと。僕たちを振り回しているのは、ウイルスと情報です。

 結局、着地点がタイムリーな話題になってしまいましたが、ここでも「個人」の問題が浮かび上がっていると思います。the point of no returnの後をどう過ごしていくか。アフターコロナは「いま・ここ」です。