ひねくれた見方の『天気の子』

新海誠監督の『天気の子』の感想です。私見偏見を多分に含んでいます。間に受けないようご注意ください。また、ネタバレがあるのでご了承ください。

 

僕個人の端的な感想としては、ほぼ全編PVだったな、という感じです。

Yahoo!マクドナルド、チキンラーメン、ポテトチップス、ローソン、カップヌードル、カレーメシなどなど、僕も全て拾いきれていませんがとにかく大量の広告要素が出てきます。

期待度でいえばここ3年間の中でダントツのビックタイトルであるので、ある程度は仕方ないのですが、そもそも新海監督の近作が音楽プロモ的演出に寄っているところもあり、今回はRADWINPSの劇中歌が計5曲もあるということでやはりそういう側面が強調されているのは確かでしょう。

加えて、「恋するフォーチュンクッキー」や「恋」が使われたり、陽菜の弟・凪がどう見ても『聲の形』の結弦であること、カブのチェイスシーンは『ひるね姫』、テクノロジー要素、(これまでもありましたが)過去作キャラのゲスト出演、『言の葉の庭』並みかそれ以上の新宿(その他東京の)描写、さらに僕が気づいていないであろう種々の引用を鑑みるに、どうやら2010年代カルチャーの総決算としての位置づけを狙っているのではないかと僕は思います。

石岡良治の、2010年代になってアニメにおいて女性向けの視覚的快楽描写が増えているという指摘を援用すると、帆高と凪の風呂シーンや凪のダンス、帆高の腹チラも現代的ジェンダー表象を踏まえたものに感じられる。

 

これは邦画最大のネームバリューを獲得した新海誠をどう扱うかというプロデュース、マーケティングが大きいと思います。『君の名は』でもしばしば言及されていた川村元気陰謀論的なアレですね。全てがそうでないにしろ、やはりここまで社会に影響を与えてしまった以上、こういった印象も無視できません。

 

では、それに対して新海誠は何を表現したのか。それは「世界の形を変えてしまったんだ」というフレーズに込められているように思います。

 

ここまで言えばこの記事のオチは読めてくると思うのですが、つまり、新海誠が日本社会(=天気)*1を決定的に変えてしまったという自己言及なわけです。

 

『天気の子』の結末は、陽菜を選択することで世界の改変を思春期的自己中心性のもとに受け入れるというものでした。こう考えると、お前は世界を変えてない、世界はもともと狂ってるという須賀のセリフは実に面白いのですが、ともかく、世界を変えた後も新海誠は彼女*2を選ぶという宣言のように感じる結末になっています。

 

他にも、帆高の家出や、母から継いだ陽菜のアクセサリーが世界改変後に割れていることなどは親(=支配者)*3からの解放という意味にも受け取れ、プロデューサーやスポンサーの発言力が非常に強かったように感じられる作品におけるメッセージとしては邪推したくなる魅力があります。

 

 

とまぁ、いやらしい見方をしたらこういう感想になるのですが、『君の名は』に続く大作邦画アニメーションとしてしっかり作ってありますし、帆高のやんちゃっぷりにはやや突っ込みどころもありますが、雨の多かった2019年夏を彩る良い一作なのではないでしょうか。

時代の寵児」である作家が「時代」に対する批評性を持った作品を作る。今作の受容と次作の展開が非常に気になるところです。

 

PS2版天気の子を俺たちは遊んだことが有る気がしてならないんだ。 - セラミックロケッツ!

面白い記事があったので追記です。これを読むと、2010年代どころか21世紀総決算と言った勢いであり、なんだか怖くなってきますね。来年の作品群とか、新海の次回作とか、どうなっていくんでしょうか?

*1:劇中に天気は「天の気分」であり、人間がどうこうできるものではない、という趣旨の発言がありますが、実に示唆的です。

*2:新海が初期から一貫してテーマにしてきたもの。今作がこれまで通りセカイ系であることも新海の強い意志を感じます

*3:陽菜の場合は宿命とも言える。帆高の父が厳格そうであったのも面白い。