声優論考②:演技論のまとめと応用(『プロメア』を具体例に)

期間が空いてしまいましたが、声優論の続きを書いてみたいと思います。 前記事のまとめと課題の検討、また論を応用して具体的な作品(『プロメア』)における声優の演技がどうであったかを批評してみたいと思います。『プロメア』大好き!っていう方にとっては気分を害される評になる場合もありますのであらかじめご了承ください。

 

演技論のまとめ

 

  • 声優の演技の評価軸として「技術」を据える試み

 

  • フィクションのキャラクターを演じる上では虚構と現実のジレンマを考慮しなくてはならない。その観点から、「技術を披露する*1」という意味における「演技」が、披露する自己としての「現実」とキャラクターの「虚構」の二重性を内包することの重要性。演技をしていることを自覚する*2

 

  • 上記の技術論の対立項として感情を志向するものがある。キャラクターになりきるというもの。これは演者としての自己を忘却することであり、ジレンマを無視している

 

  • 補足として、感情論が主流となる現在においては声優のパーソナリティが演技の評価に関わることも感情論を支持しない理由として挙げられる。理論的技術的成熟ではない、感性的多重人格的受容に対する危惧

 

  • 技術力のバロメーターとしては「再現性(精度)」と「役の幅(声の幅)」の二点が挙げられる。「再現性」とは一度演じた役柄を再び同じ声で演じられるかということを指し、「役の幅」とは役柄および声にどれだけのバリエーション*3を有しているかということを指す。つまるところ、自らの発声をどこまで生体構造的(技術的/理論的)に理解しコントロールできているかということ*4

 

 

これがまとめとなります。さらなる要約を加えると、従来の感情を中心とした演技のあり方と受容*5に異議を唱え、技術を中心としたものの導入を目指すものであり、「具体的な声色を獲得すると同時に、それが観客にどういう印象を与え、どういう解釈を誘発するかという「表現の技術」」*6に立脚した演技を模索する試みが前回の記事でした。「表現の技術」というのはつまり、声優各人の感情それ自体をも技術化し、それの提示方法によって観客の受容を操作するということです。

本章の締めくくりとして、以上の僕の声優演技についての言説を「技術論」と仮称することにします。

 

 

改めた点

技術論に対し、前回の時点でいくつか疑問点をいただいたので本稿で反省的に回答したいと思います。

 

 

○パターンによる演技とフリによる演技の違いは何か


再現性の有無と、技術の幅ではなくパーソナルの幅という出発点の差異の二点があります。フリによる演技は感情を中心とした考えに基づいており、それは「技術の幅が広い」ことではなく、「多様な性格を持っていること(多重人格性)」を是としている。これは観客が声優のパーソナリティを重視することが声優に反映された結果として表れたものである可能性が高い。フリによる演技の悪例として、松岡禎丞キチガイ演技や佐倉綾音の奇声演技があるが、これはもはや技術を見せる「演技」ではなく、各人のパーソナルな遊び、悪ふざけに近いものとなっている。
 
○再現性がないものは美的価値がないことの論証がされていない


芸能、パフォーミングアーツというのは一回性の要素を含みつつ、それを下支えする技術的土台が必要とされます。偶発的な好演技があることも確かであるが、個人的にはその土台となる技術力、「平均点の高さ」を指針として演技について考えていきたいということをここに示しておきます。

 

 

また、節子*7やすずの演技については大幅に論旨を変え、以下のような考察に改めます。

技術論の批評においては彼らは演技力が極めて低い声優であるとします。彼らの演技に技術力はありません。ただ、私たちの受容では彼らの演技に感銘を受けることがありますが、それは技術的な巧拙ではなく、役者のパーソナリティあるいは地の声とフィクションのキャラクターが偶然に限りなく接近したことによって生じたものであると結論づけます*8

 

 

応用編

 

これまでにまとめた技術論を応用していきたいと思います。具体作に入る前に、「自然な演技」という言葉に対する考察から。

 

演技を巡る議論や評価の中で頻繁に出てくるのが「自然な演技」です。多くは好意的な文脈の中で使用されますが、特にアニメーションにおいては「アニメ的な演技」の対概念として置かれている節もあります。

まず「自然な演技」とはなんなのか。それは「素*9」に近いことです。フィクションであるはずのキャラクターが現実にいるかのように感じられること、そしてそのために役者がキャラクターと同化することを指します。それは作り物が現実になることであり、多くの人が潜在的にフィクションに望んでいることでもある。
また同時に、「素」であることの一要素である「過剰ではない」ことを取り出し、それのみを先鋭化させるものもあります。ジブリの素人演技などが最たる例として挙げられ、「素」に含まれるはずの過剰以外の要素*10は無視されることが特徴と言えます。

 

先に示したように虚構は現実たりえないので、キャラと役者の同化という意味での「自然な演技」の幻想は捨て去るべきだというのが僕の見解です。偶発的な特異例としての節子やすずはありますが、可能性として開かれているのは「自然に見える/聞こえる」表現技術の開拓なのではないでしょうか。

 

 

そして、「自然な演技」の対概念である「アニメ的な演技」。これがふんだんに使われたのが『プロメア』でしょう。

 

グレンラガン』『キルラキル』に続く中島かずき今石洋之コンビの新作として一部コミュニティでは大きな盛り上がりを見せた本作ですが、松山ケンイチ早乙女太一堺雅人がメインキャストを務めたということも注目された点でした。彼らの演技について考えていきたいと思います。

 

一般的には「自然な演技」と「アニメ的な演技」は対概念であると思うのですが、僕としては技術の上に立った演技という大枠の中に「自然」なパターンと「アニメ的」なパターンがあるのではないかと考えます。その意味において「アニメ的」なパターンの演技でレベリングされたのが『プロメア』でした。

この場合の「アニメ的」というのは過剰であるということです。今石作品は往々にして画面の情報量や作画が激しいためそれに見合った演技パターンが求められるわけです。

 

その点で言うと、松山ケンイチは非常に好演技だったと思います。『グレンラガン』のカミナに似たデザインであるガロですが、そのキャラクターにあった声を出せていた印象です。小西克幸に聞こえなくもない感じ。また発声もしっかりしており、マイクに声が綺麗に乗っていました。叫声やいなせなセリフにも対応しており、強いて難点を挙げるとするならやや滑舌がもたつくところがあったくらいでしょうか。

 

対して早乙女太一は良くなかった。まず何と言っても声量のレベルが周囲に対して明らかに劣っていたこと。全体的に抑えた作風であれば違和感はなかったかもしれませんが、他のキャラクターがあれほど声を張り上げる中で、クールキャラという記号性はあれどあそこまで声量を落とすのは良い選択とは言えません。決して声が出せないわけではない(後半はある程度出ている)ことを考えると惜しいと思わざるを得ないです。

 

次に堺雅人です。正直なところ、一番いまいちなのが彼でした。堺雅人はマイクに向かって演技する技術が根本的に足りていない。

一番良くわかるのがささやき声の演技です。彼の個性のひとつとも言える演技ですが、マイクに声を吹き込む声優の演技においては非常に気をつけなければいけないものです。というのも、アニメーションのキャラクターというのはそのルックだけで極めてフィクション性が強く、声優の声との乖離が起きやすいため、声優の演技における摩擦音やノイズが忌避されるのは耳障りであることに加え、そういった不純物がマイクの存在、アフレコという事実を前景化させるからです。「マイク乗りの良い声」という言葉がありますが、キャラクターそのものがしゃべっているように見せかける(聞かせかける?)ためには、腹式による安定した発声が必要になるのです。

堺雅人のささやき声は呼気が多く、摩擦音やノイズが目立ちました。これが「堺雅人がしゃべってる」感じをもろに受けさせ、結果として悪目立ちしている。また、叫声で声が裏返ることがありましたが、裏返ることがすべての場合において悪いわけではないにしろ声をコントロールできていない印象を与えてしまっていたと思います*11

 

ゲスト三名以外の方は身内声優*12で固めているので、まぁ堅実な演技だったと言えるでしょう。ひとりだけ触れておきたい声優がいます。エリス役を演じた小清水亜美です。

 僕は『コードギアス』のカレン役が素晴らしかったと思っているのですが、今回『プロメア』であらためて彼女の実力に気付かされました。

女性の場合、「役の幅」という面で傑出した声優が多くないというのが僕の感覚なのですが、その意味で小清水亜美は非常に稀有な存在でしょう。特に昨今の女性声優は高音域の層は厚いが低音域が弱い状況にあると思います。もう若手とは言えませんが、彼女のように女性的な繊細な声とドスの利いた声を使い分けられる存在は貴重だと言えます。少年役を演じるにしてはやや声が細く、低音に振り切れていない部分はありますが、技術力の高い声優のひとりとして数えられても良い人物であるのではないでしょうか。

 

全体的に見れば、いわゆる「熱い」演技で統一を試みたキャスティングであり、それは全面的とは言えなくとも部分的には成功しているように思われます。『プロメア』は作画がほぼサンジゲンによる3DCGでありましたが、縦横無尽なカメラワークに対して間延びせずに一定の質量、熱量を伴った演技群を構成できていた部分は評価できるでしょう。ただ、前述の通りゲスト声優による不均一性というのはどうしても表れており、劇場版というTVアニメとは異なる集客力を求められる場においてのキャスティングの難しさが端的に現れているのではないでしょうか。

 

 

さてここで、素人や俳優を声優として起用することについて少し掘り下げてみます。

 

ここではやはり「レベリング」の問題が大きくあるでしょう。作画やキャラクターデザインの一貫性、背景とセルのなじみがアニメーションのクオリティを語る際に多く言及されるように、声優の演技もまた適切なレベリングがなされていることが望まれます。

例えば、『海獣の子供』は専門声優がメインキャストに起用されていません。元々セリフが少ない作品ではありますが、「声優」ではないキャストによるレベリングが達成されている例だと感じます。

また、『きみと、波にのれたら』ですが、こちらも同様にレベリングが達成されています。ただし、此方はトータル的な声優演技の技術で言うと『海獣の子供』に対して遅れており、そういった面での粗は目立ちます。ただ、GENERATIONS from EXILE TRIBEの主題歌などアニメオタクよりは一般客に開かれた要素が多いので、マーケティング的には適当なキャスティングなのだと思います。

 

「声優」ではないキャスティングとして考えなければならないのがジブリの諸作についてです。今回は非「声優」性が最もラディカルであった『風立ちぬ』について考えてみたいと思います*13

 

主人公・堀越二郎の声優には、(なんとナントの難破船)アニメ監督の庵野秀明が起用されました。これには一体どういう効果があったのか。

 

技術論ベースでいくと、庵野の演技は低評価を付けざるを得ません。声量は出ていないし、感情の無起伏は操作といった次元ではなく能力的限界です。

しかし、僕は『風立ちぬ』における庵野の演技が悪かったとは思いません。それは、技術的ではない側面から作品に作用していた。

 

風立ちぬ』における庵野の演技の効果とは、簡潔に述べると「異化」です。

本来技術論においては、声優の演技は声という作品世界を構成する要素として組み込まれることを目指しています。その意味で庵野の演技は作品世界に従属せず、異物的な「声(音)」として浮いたものになっていました。通常の作品であればその時点で良い演技とは言えないのですが、『風立ちぬ』においては庵野が演じた役が堀越二郎という実在の人物をモデルにしていたことがポイントになります。『風立ちぬ』の堀越二郎という存在はそれ自体が虚構と現実の狭間にいるものなのです。よって、庵野の「声」が異物として作品に混入することにより、作品がフィクションであることを「声」に接する度に観客が確認させられることが、堀越二郎という中間的存在、ひいては『風立ちぬ』という原作小説と宮崎駿の改変という中間的状態のメタファーとなっているわけです。庵野の「声」はアフレコという事実、キャストの存在を顕にしますが、それは堀越二郎や作品そのものについての言及になっているということです*14

 

 

以上、軽く専門声優以外のキャスティングの是非について述べてみましたが、最後に話題を押し広げて、「声優」というブランディングについても触れておきたいと思います。

 

主にアニメアフレコを中心に活動する「声優」という職業は現在、オタクカルチャーまたはユースカルチャーの代表者、代弁者という機能を担っています。彼らはオタクあるいはティーンエイジャーのrepresentative*15なわけです。そこには「何者かである」ことへの強烈な憧れと嫉妬が屈折して包含されながら、理想的な自己の鏡像的体現者として位置づけられています。誰しもが通る「何者かであり」たいという願望が、フィクションのキャラクターへの仮託を突き抜ける形で「声優」に投影されているのです。

閉鎖コミュニティ性の強いアニラジ文化や「声優」バラエティというのは、観客の「未経験の青春」を昇華するものとして消費されています。オタクとティーンエイジャーは「声優」の中に自己を見出し(それは個人的倫理規範の押しつけと同時に「声優」のファションや嗜好を真似るという双方向的なものである)、それを体現し続けて欲しいと願うわけです。

 

劇場長編アニメで「声優」が起用されないことへの怒りや、「声優」がマルチな活躍をすることへの盲目的な賛美は、結局のところ「声優」が認められる、活躍することが自分が認められ活躍することだと認識しているからなのです。

同じように、「声優」が結婚することのタブー感というのは、同化的同調的コミュニティとしての「声優」文化において、恋愛的に恵まれていない状況にあるオタクやティーンエイジャー自身からその投影者である「声優」が乖離していくことへの恐怖、不安に起因するところがあると考えられます。(もちろん疑似恋愛的要因もあるでしょう)

 

「声優」養成所に人が溢れかえっているという事実からも、このことは確認できるでしょう。そしてこのような同化は、未熟な己の技術に対する自己欺瞞、そして先天的に「何者かである」ことへの憧れを膨張させ、声優演技におけるパーソナリティ偏重や感情偏重を引き起こします。これは僕が最も避けたいと思うところであり、多くの方に自問していただきたいことです。

 

 

 

 


 

 声優ネタというのは非常にデリケートなこともあってか、活発な議論が避けられてきた分野であると感じます。しかし、他の文化、芸術を見ても、演者役者の問題を取り扱っていない分野はありません。もちろん、個人の好き嫌いはあって当然だと思いますが、そこから一歩踏み込んだ話が増えていくことは決して悪いことではないはずです。

 

応用ということで『プロメア』を取り扱いましたが、まだまだ挑戦したいアニメはたくさんあります(特にアイドルアニメ)。声優の歌についてや、吹き替え、ゲーム、ナレーション方面への広がりも今後は視野に入れたいところです。

声優演技の技術論というのは各演技の短評のようなものにとどまってしまいがちです。前回の記事がマニフェスト的なものであったとすれば、今回以降進めていきたいのはその応用です。それについては、演技単体の話ではなく、それを取り巻く諸事情についても言及しなければならないでしょう。個々の事象に終始せず、作品全体やさらに広い枠組みで思考していきたいです。また、技術論で見出される演技が「平均点の高い」ものである以上、その範疇にとどまらないものへの論の広げ方というのも考えていかなければなりません。自分で書いておきながらですが、もちろん技術論の限界はあります。そういった周縁も拾いながら、書き進めていきたいと思っています。

 

前回の記事から反省するところも多く、今回の記事も拙い箇所が多々あったと思うのですが、何かお読みいただいた方に届くものがあればと思う次第です。批評というのは自己完結するものではありません。多数の人間によって繰り返しその妥当性や論理が検証され、その度に進んでいくものです。本稿は僕個人の趣味嗜好の影響を免れているとは言い難い。そういった意味からも、多くの方に読んでいただき何かしらのリアクションをいただくことができればそれ以上のことはないです。

*1:peforming artsという意味における「芸能」の中に声優を位置づける。テクネー。(これに関しては僕も勉強中なので深く突っ込まれると答えられないです。アリストテレスのやつ。最終的にはミメーシスの思想とも絡めてきちんとまとめたい)

*2:もちろん、観客もまた二重性を意識的あるいは無意識的に了解している。そして、この二重性は演技における対話につながる心構えでもある。つまり、役に入り込むことを志向するあまり対話(他の声優とのやりとり)が疎かになってしまうこと。常に客観的な自己を内包した状態で演技をするのが技術の演技である。

*3:これはストレートナレーション等の声による表現全般に対するレンジの広さのこと。

*4:上記の理由から、声優であること自体は声の演技の優劣に何ら寄与しないと考える。むしろミュージカルの人間が声優として良い演技をすることもある(市村正親など)。また、この生体構造的アプローチが学術的なものか感覚的なものかは問わない。

*5:観客の存在が不可欠である演技において、その実践と受容は切り離せない関係にあるため、本稿ではそれを包括的に論じていく。

*6:前記事の無名さんのコメントからの引用です。その他本稿を執筆するにあたり、いただいたコメントやアドバイスを多く参照しています。

*7:子役の演技は感情論が重視される状況と技術論を取り入れることの重要性を確認する好例です。子役の演技において真っ先に言及され、その「演技力」の指標として挙げられるのが泣きの演技です。これは演技において、些末な技術を無視し感情こそを優位に見る考え方が蔓延しているためですが、同時に子役の演技は時として「鼻につく」「こにくたらしい」という評価を受けがちです。ここをつなぐ補助線が技術であると思います。つまり、子役は肉体的成熟が十全でないという大前提からして技術力の低さは否めないわけですが(たとえば滑舌など)、それを無視して強引に感情が伴っているから是とすることでねじれが生まれているのです。あくまで演技力は技術に基づくものであり、感情はその上に加えられるもの、あるいは感情までも技術の範囲に含めるものです。泣くことにおいては滑舌などのわかりやすい技術が問われないために子役の演技力を測る指標とされてしまうわけですが、本来は演技力(技術力)が低い子役を無理に演技力が高いと解釈することで、鼻持ちならなさのような不満が噴出するのであると考えます。

*8:僕には感情論や声優のパーソナルな面を楽しむ受容を否定する意図はないことをここに明記しておきます。あくまで近年のあり方、受容がそこに「傾きすぎている」と感じているわけです。

*9:リアル、ドキュメンタリー風、本物らしい、現実そのもの、演技をしないあるいはしていないような、などと言い換えられる

*10:言いよどみや言い間違え、どもりや滑舌の問題など

*11:作劇上キャラが動揺している、いっぱいいっぱいになってる表現として意図的に使っていたと好意的に捉えることもできますが、そこまでテクニックに優れているとは思えないため今回は「ない」表現とします。

*12:新谷真弓について、『彼氏彼女の事情』での棒演技はファンの間で伝説となっていますが、彼女のように演技が「上達」することは技術が重要であることのなによりの証拠であると思います。もし感情が最も大切なのであれば、「上達」なんてものは存在せず、熱意しかない新人声優が誰よりも上手く演技できるという逆説すら生まれかねないのです。ただ、しつこいようですが、感情を否定しているわけではないことは再三述べておきます。技術にプラスアルファで感情的な何かが宿る。そういう演技はきっと素晴らしいものになるでしょう。

*13:高畑監督の作品については彼の著作の記述を参照しつつ論じていきたいのでここでは割愛します。

*14:庵野が『帰ってきたウルトラマン』はじめ多メディアで露出する存在であることも一考の価値があります。

*15:応援上映という新文化も、代弁者としての声優の機能に依るものでしょう。「応援」はしばしば第三者的な声援から声優と同じセリフを口にするものへと変容して浸透しています。ここにも「声優」と自己の同化という現象が見受けられます。