ニュースを見ないということ
少し精神的につらくなったので言葉にしておきます。
僕は人が死ぬことがひどくこわいです。
いまだ身近に起きてはいませんが、それだからなのかもしれませんが、人が死んだ殺されたというニュースを聞くと猛烈に胸が圧迫されます。深くまで吸気が入って来ず、気力が失せ、何もしたくなくなります。
テレビでニュースを見ていた時期は、すぐにチャンネルを変えていました。しかしSNSの時代になってからは、知りたくもない情報が向こうから飛び込んできます。
池袋の自動車事故。それ以降の高齢者事故。新宿の殺人未遂。そして、今日の川崎殺傷、さいたまの警官発砲。
さいたまの事件はいましがた速報が出たばかりです。嫌な予感ほど的中するものですが、おそらくこれから急速に拡散され、川崎と並べて語られることになるのでしょう。
そもそも、事件・事故を並べるというのは一体どういう行為なのでしょうか。
あらゆる事象には、僕らとなんら変わりのない人格を所有した当事者が存在し、いっさい彼らは代替不可能なもののはずです。僕がこうして「池袋」「川崎」などとラベリングして記述していること自体があらゆる罪よりも罪深い暴力なのです。
僕は、人が死んだ殺されたというニュースを聞くとき、被害者、加害者、被害者親族、加害者親族の気持ちを手前勝手に想像し、わけがわからなくなります。
池袋のとき、一方的に加害者を断罪する声の大きさに耐えられなくなりました。
僕らはあくまで第三者であり、部外者です。加害者がどういう気持ちだったのか、どういう気持ちでいるのか。被害者はどういう気持ちだったのか。加害者親族はどういう気持ちなのか。被害者親族はどういう気持ちなのか。彼らはどういう人生を歩み、どういう状況にいたのか。それらはすべて知ることはできないのです。
そして、知ることができないからこそ、無責任な妄想を垂れ流し、当事者のプライベートに介入するという愚行を犯します。
繰り返して書くと、僕らには何もわからないし、わかることはできない。
これを忘れてしまってはいけないと思います。
善悪二元なんてそんな綺麗な世界じゃないことぐらいみんなわかっているはずなのに。
そんな抽象的な思想は、具象の前では霧消してしまうのでしょう。
被害者が善で加害者が悪なんてことはありえません。厳密に言えば、僕らにはわかりません。
こう言うと加害者擁護だとか、被害者軽視だとか言われますが、そうではないです。僕はどちらの側にもつけないのです。さらに言うと、この「側」というものも当事者の間でのみ有効なものであり、部外者である僕らが「側」に属すること自体おかしいはずなのです。
僕には何もわかりません。だから、人が死んだ殺されたという出来事ばかりが肺に淀んでいきます。もうこういうニュースは聞きたくないと、耳を塞いでうずくまりたくなります。
でも、その手を突き抜けてくる声があります。
「最低な犯人だ」「死ぬなら一人で死ね」「即刻死刑にしろ」
僕は淀みを義憤の燃料に変えることができません。何もわからないから。
きっと、燃やし続ければこの淀みはなくなるのでしょう。だから多くの人が声をあげるのでしょう。でも、僕にはその方法すらわからない。
燃やした後の排気煙はどこへ溜まっていくのでしょうか。
もうひとつ書きたいことがあります。
被害者親族、加害者親族の負担をなくしてほしい。
これはどのように達成されうるかというと、僕らが徹底的に無関心であることだけです。
マスコミは市場原理に支配されています。それは決して悪いことではなく、産業自体がそういうものであり、その中で生きるためのお金をもらう人たちもいます。強いて「悪」を見出すならば、資本主義という構造にしかありません。
人が死んだ殺されたというニュースは非常にセンセーショナルです。上に挙げたものを見ても、ただの政治ニュース芸能ニュースの比ではないくらいの影響力を持ちます。
だからこそ、マスコミは報道するのです。
リツイートの数が社会に求められていることのバロメーターです。僕らが拡散すればするほどに、嫌な言い方ですがマスコミは儲け、より詳細な報道へ傾いていくのです。
マスコミに「被害者親族に取材しないでほしい」と言うことは簡単です。でも、それで報道をやめられるほど単純な社会ではありません。であるとするなら、僕らが徹底的に無関心であり続けるしか、被害者親族、加害者親族の負担を減らす術はないのです。
どのような言説であれ、僕らがニュースを話題にするという行為(マスコミを情報源とすること)が、言葉裏にマスコミの報道、取材を肯定してしまっています。被害者、被害者親族を慮るコメントであれ、加害者を糾弾するコメントであれ、あらゆるコメントは無条件にマスコミを認めてしまっていることを認識しなければいけないと思います。
事件や事故から目を背けること、これは究極の行為であり、場合によっては負の影響を生み出すことも考えられるでしょう。でも、そうでもしないとどうしようもない社会が出来上がってしまっています。
あらゆることに専門家がいます。法には裁判官、弁護士、検察。行政には警察。他にも研究者やカウンセラーなど、僕らがいちいち意見を述べなくても、適切な処理を下す方たちがいます。であるならば僕らは、出来るだけ事象から離れ、静観するのが当座最良の選択ではないでしょうか。
どうしてもそのことについて話したくなった時は、友人や家族と面と向かって話すのが一番だと僕は思います。その気が起きない、そういう場で話せないような事柄は、話すべきでないものだと思うんです。いかなる場においても。
気持ちを整理するために書いた記事ですが、同時に、読まれた方に何かしらの変化を与えられること祈っています。