『現代アニメ「超」講義』書評と7/10トークショーレポート

ほぼ自分向けの覚書です。書き方はめちゃくちゃです。

 

トークショーレポート

 

概論として、本書は「アニメ」のユニヴァースを探る試み。この場合の「アニメ」とは主に商業的テレビアニメとアニメ映画を指しており、「ジブリ」「ディズニー」や広義のアニメーションは含まれていない。

2019年は高畑勲の年としての側面を持つ(NHK、岩波、近代美術館からのアプローチ)。高畑は日本のアニメの表現形式のシステム整備の側面もあるが、絵を描かないという点、『王と鳥』からの影響からみてシナリオ、演出的側面の影響も無視できない。

「アニメ」はひとつにはメディアミックス(『鉄腕アトム』)が起源とされ、原作との関係性が常につきまとってくる*1。そのものとしてはストーリーテリングの弱い「アニメ」が「環境*2」として果たした役割に迫ることを企図した*3

前述のユニヴァースとはジョーゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』における「The Hero」と真逆の方向性としての、ひとつに束ねられていく神話ではなく、あふれかえる物語の差異を集めていくものとして定義している*4

3つのポイントとして「情報の扱い方*5」「女性ファンの存在」「ストリーミング配信」に意識して執筆した。

 

質問1

トライガン』等の萌えではない西部劇、ノアール的なマイナー原作を発掘する装置としてのアニメをどう思うか。

 

そういう側面はある。ハリウッドではウェスタンは各映画に偏在し、特にMCUはそういう要素を多分に含んでいる。

 

質問2

ロボアニメと3DCGについてどう思うか。『ブブキ・ブランキ』の方向性

 

ロボアニメはガンプラやゲーム等のホビーと切り離せないので難しいのではないか。サンジゲンでいうとアイドルアニメのダンスの方が重要だと考える。アイドルアニメもまた、ゲームによって3DCG表現にファンが馴らされていたという事実がある。

 

質問3

声優とアニメについてどう思うか。

 

声優はスターシステム的に扱われている。また、ヒプノシスマイクに代表される、アニメを越えた役割もある。もちろんアニメにおける役割も重要なので、これから取り組んでいきたい課題である。

 

 

(各章のおおまかな紹介もありましたが、その部分に関しては私見も含め書評にまとめます。)

 

相変わらずメモが下手くそで、抜けが多々あります。ご容赦ください。(PLANETSのツイッターアカウントが連ツイでまとめているのでそちらも参照してください。)

 

 

書評

 

・序章

現代アニメの起点を細田守デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』に設定。細田守自身の「アニメ」的側面とジブリ的「国民映画」的側面(1章)、シャフトへのつながりを見いだせるデジタル表現(2章)、オメガモンのバトルアクションをロボットアニメとして捉えた場合のロボットアニメとのつながり(3章)、キッズアニメの演出家としてのキャリア(4章)、そして2000年という公開時期の偶然性を考慮。

 

・1章 2010年代、深夜アニメ表現の広がり

現在の深夜アニメに至る流れを80~90年代のOVAと90年代の深夜バラエティ番組*6の2つにみる。その流れが合流したものとしてのゼロ年代以降の深夜アニメはゴールデン帯の消失や地デジ化、スマホ普及などを始めとする環境の変化を受けてひとつの「断絶」が起きているとする。つまり、ネット動画文化以後の世界。

これによってオタクのライト化が進むが、その際に台頭してきたスタジオがシャフトと京アニ(2章)であり、ライトオタクにとっての「アニメ」の入口になったのがノイタミナ*7。男性アニメオタクについては、「メカと美少女」がほぼ機能しなくなり、そのコミュニティはノベルゲーム原作→日常系→異世界ファンタジーへと移動している。同時にアニメにおけるジェンダーの扱いも変容しており、『ハルヒ』や『野崎くん』が画期的。

ノイタミナ枠の最たる成功例としての『あの花』と同スタッフによる『ここさけ』は「アニメ」が「深夜枠」から外へ飛び出していく流れの最先端にあるが、深夜アニメ的要素を残したままのこの作品群は『君の名は』のような仕方で受け入れられることは難しいかもしれない。が、深夜アニメにはショートアニメや3DCGなどの尖った実験の場としての余地はあるとする。

 

→深夜アニメに至る2つの流れは世代ではないこともあり違和感がある。遡及的に視聴した身としてはOVAにも深夜バラエティ的要素はあるし、深夜バラエティにもOVA的要素があるのではないか。いずれにせよ共通するのは「エログロ」と「アングラ感」だと思う。

ノイタミナ枠の役割や男性アニメオタク向けアニメの変遷、ジェンダーの扱いについての考察は納得のいくものであるが、ライトオタクに対する認識はやや甘い感じがあった。ネット動画文化によるライト化は正しいが、さらに進んでSNS以降は「狭く深く」への反動が起きている感覚がある(「沼」や「おじさん」)。動画コメントによるコミュニケーションからつぶやきによる情報(≒知)の顕示のようなもの。

 

 

・2章 シャフト京アニの時代

「アニメ」の映像表現においてグラフィカルな表現の極北としてのシャフト、フォトリアルな表現の普及者としての京アニが21世紀を代表するアニメ制作スタジオであるとする。1章に続き、京アニの『Free!』における女性向けの視覚的快楽の試みや『響け!』における百合モチーフとジェンダーの扱いについての言及。

 

→良い分類だが、『らき☆すた』の「らっきーちゃんねる」がその後の「アニラジ」的アニメ*8、5分枠のスピンオフミニアニメに影響を与えているというのはやや無理がある気がする。声優や「アニラジ」的要素であるならば同時期の『ハヤテのごとく!』もそうであるし、アニラジそのものでいえば『うたわれるもの』の影響力を外すことはできない。また京アニ新海誠に由来するフォトリアル表現をコモディティ化したとの考察があるが、現在から見て結果的にそのように見えても、新海誠京アニではフォトリアル志向の発生源が異なるし、石岡自身それは認識しているのではないか*9。シャフト・京アニという分類にこだわりすぎているきらいがある。

 

 

・今世紀のロボットアニメ

ロボットアニメとホビーの関係性及びジャンルとしての特性を説明しつつ、21世紀ロボットアニメにおける谷口悟朗平井久司の功績を『コードギアス』中心に考察。「ポストギアス」として『ギルティクラウン』と『ヴァルヴレイヴ』の不発と『クロスアンジュ』の達成。「ポストギアス」における『ガンダム』と『マクロス』について。そして、キッズアニメの方向性としての『シンカリオン』。

 

→『コードギアス』を軸としたロボットアニメのジャンル考察として非常に優れている。なるほど、って感じで読みました。

 

 

・4章 キッズアニメ 「意味を試す」

制作サイドと視聴サイドの両者が幅のある世代で構成されるキッズアニメが持つポテンシャル。サンリオ作品と森脇真琴作品(特に『プリパラ』)を中心にシュール系コメディとしてのキッズアニメを考察。英文学的ナンセンスにつながるような、児童の言語学習における「意味を試す」ことが生まれている魅力。「脱臼 dislocation」させるアニメの魅力。

 

キッズアニメは門外漢なので、ここもなるほど、という感じ。

 

 

・終章 2016年以後の世界 アニメの「神話論理」のために

『君の名は』『聲の形』『この世界の片隅に』の2016年を象徴的な年とし、これら三作以後の地平で動く「アニメ」の今後について。3DCGアニメの定着としての『宝石の国』『けものフレンズ』、そして実写アクション邦画の活路としての『BLAME!』。『はぐプリ』への言及、1章2章のジェンダー論総括、「ポスト細田守」としての新海誠、『FGO』に代表されるアニメとゲームの共存関係。

 

 

 

書評のまとめとして。

講義や評論というよりはレビュー集といった側面が強く、散文的な印象。もともとメルマガと動画番組だったものを元にしているためか。ロボットアニメやキッズアニメといったジャンルに絞った考察は説得力があり、やはりもう少し範囲を限定した方が論旨が明快になったように感じる。特に1章はまとめるのが大変だった。

トークショーの内容も含め、女性ファンの存在感の増大に伴うジェンダー表現の変化は注目すべき部分だと思うし、ゲームとの関係をはじめとするハブ的なアニメの機能のさらなる考察も期待される。

 

 

現代アニメ「超」講義

現代アニメ「超」講義

 

 

 

 

 

 

*1:本文における「不純」という表現。

*2:本文における「器」という表現。

*3:ここの話では「町並み」的なものとしての「アニメ」というたとえも出ました。つまり、過去と現在が混在するものとしての「アニメ」。

*4:ここは石岡自身がたびたびオタクカルチャーに「参与観察」するという主旨の発言をしているところから、非常に文化人類学的な手法を感じる。

*5:「情報の扱い方」としては序章の『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』的なテクノロジーの扱いと、特にゲームものの原作の扱いがある。スマホアプリゲームのアーカイブ問題の解決策としてのアニメ.

*6:serial experiments lain』を嚆矢とする、『てーきゅう』等にみられるような深夜番組感。

*7:特に初期の「ヤングレディース」や「ライト文芸」的ジャンルを中心に展開していた頃。

*8:gdgd妖精s』から『てさぐれ!部活もの』に至る石ダテコー太郎作品

*9:新海はゲームOP表現の模索の中でのものであり、京アニはコンテンツツーリズムの流行を受けてのものである。これ自体は本書で言及されている。聖地巡礼は同時期のアキバ文化をはじめとするオタクカルチャーの大衆化、ファッション化、アウトドア化を避けて考えられず、1章のライトオタクの認識含めオタクコミュニティに関する考察はやや不足しているか。