負け犬の遠吠え

有名人、成功者の自伝は数多くあります。各人が思い思いの言葉で綴るそれらですが、読んでいると、実際のところ「運」と「努力」、この2つが常に共通しそれ以上のものは個人の感想の範疇を超えません。

 

「運」と「努力」。極めて苦く、それでいてあまりにも甘い言葉です。

 

ありとあらゆる人が「運」と「努力」を欲しています。どちらかが欠けている人もいれば、どちらも欠けている人がいる。そういった人たちが世の99%です。

 

その99%の人たちの声は、どこへいったのでしょう。

 

何か大きな試練を迎えた人に対し、僕らは浅慮にもこう言葉をかけます。「努力したんだから大丈夫だよ」「結局は運だから」。

当事者ではない僕らは、雨風をしのげる屋根の下からどこかで聞いたようなセリフを輪唱するだけなのです。そして多くの場合、その屋根とは当事者が目指している到達地点である。

 

アーティストになった人が、芸人になった人が、俳優になった人が、優良企業に就職した人が、良い家庭を持った人が、それを求める人達に無責任な言葉をかける。彼らは絶対に傷つかない場所にいるから。

 

決して彼らの苦労や人生を否定するつもりはありません。成功した人もそれぞれの辛苦を経験し、それを乗り越えた方たちです。

ただ、彼らと僕らには決定的な断絶があるのです。千尋の谷を挟んでかけられた言葉に、一体どれほどの意味があるのでしょうか。

もちろんその言葉が谷を超えるきっかけになる人もいるでしょう。でも、谷を超えてしまった時点でその人はこちら側の人間ではなくなってしまうのです。

 

負け犬同士で傷をなめ合えと言いたいわけではありませんが、負け犬たちはどうすれば救われるのでしょうか。それとも、救われないのでしょうか。

 

世の中に救われない人々は数え切れないほどいます。救われない人たちで世界はできているのです。相対評価なんかはじめたらキリがなく、日本人であると言うだけで成功者に属する見方だってできます。

そう考えると、どの成功者も別の見方では負け犬たりえます。

 

自分以外の人間がいなくなった世界。それはきっと楽園でしょう。僕の天国には僕しかいません。

 

そして、僕の地獄には僕しかいないのです。