共感の氾濫

 

「わかる」「それな」という言葉が若い世代で流行している。TwitterでもLINEでも至る所で人は共感を示している。

 

ネットは人を近づけたのだろうか。遠ざけたのだろうか。

 

SNSを彷徨うとき、僕らは果てない孤独を感じる。「そこ」にはなにかがあるようで、なにもない。

 

だから僕らは共感を多用する。

「わかる」「それな」「みんなも見て」「〜だからおすすめ」。暗闇の中にいるかのように右へ左へ手を伸ばす。誰かに手を取ってもらうために。

 

繋がりを求めて暗箱に手を突っ込み、むやみやたらに掻き回したところで、手は空を切るどころか、中のものを傷つけ、己を傷つけるだけだ。

 

ネットは近すぎて遠すぎる。

 

帰り道、イヤホンを外しスマホをポケットに入れる。

呑んだくれるサラリーマンが目に入り、帰宅途中の生徒たちの笑い声が聞こえ、家々からは夕飯の匂いが漂ってくる。地面を踏みしめる感覚が立ち上る。

そこに孤独はない。

 

休日、山か海へ行ってみる。人はおらず、自然しかない。木々や水に囲まれているだけなのに、不思議と孤独は感じない。

僕らの周りにはいつも生(なま)の生(せい)がある。

僕らは繋がって生きている。

 

そこに共感はない。否定もない。

ただ「ある」だけ。それこそ生きるということなんだと感じる。

 

ネットは孤独だ。限りなく近いように感じても、どこまでも遠い。

 

人はひとりでは生きていけないから。

どうしようもなくなったときは、友達の、恋人の、家族の手を握ってみる。

川のせせらぎに耳を傾け、草の匂いを吸い込んでみる。

夜空を眺めながら、カップラーメンを食べてみる。

 

寺山修司はかつてこう言った。

 

「書を捨てよ、町へ出よう」