「君たちはどう生きるか」とクリエイターの寿命について

2023年7月15日土曜日、「君たちはどう生きるか」を見てきました。

 

劇場で新作映画を見たのは1年ぶりになります。
なぜ劇場で見たくなったのかというと、後悔したくなかったからです。

 

高畑勲の死。これは、僕にとって「クリエイターとの別れ」の決定的出来事でした。
訃報を聞いた衝撃と彼の作品を待つことができないという実感は、僕の中で痕となって残ることになりました。

 

老人はあっさり死にます。この数年で、そのことを経験してきました。
死へ接近することが多かったように感じます。目の前で愛犬が動かなくなるのを見ました。

 

宮崎駿はあと何年も生きられないでしょう。
高畑勲大塚康生も亡くなり、本人が最も死を感じているのでいるのではないでしょうか。

 

宮崎駿は子どもが好きです。子どもにまつわるエピソードには事欠きません。
いまでこそ大人になりましたが、僕もかつては子どもでした。
そして、宮崎駿からの愛を、フィルムを通じてずっと受け取ってきました。
そんな僕ができる最大限の恩返しが劇場に行くことなのかなと思ったのです。

 

間違いなく最期のこの長編作品を、公開を待って、劇場へ行った、この私的な体験は僕にとって大切な思い出になります。
いつかくる死の報せを受け止める準備になります。

 

君たちはどう生きるか
僕は、死と向き合って生きていきます。

 

 

この記事を読み返したときに、「こさぶいポエムを書いちゃって恥ずかし〜」と思えたら。
宮崎駿の次の作品を劇場で見るときにそう思えたらいいなと、心から思っています。

ファンのぼやき (『名探偵コナン』について)

2年前に書いた下書きを掘り起こして加筆修正したものです。話題が古いのは気にしないこと。

 


名探偵コナン』の新作映画*1が公開されてから発生した怖いくらいの安室透ブームに対する気持ち悪さについて。つまりは愚痴です。

 

まず「安室の女」ってなんですか。言葉が下品。そこらの男子小学生よりも品がない。以前Twitter上で話題となった「暇な女子大生」が好例ですが、こういう下劣な言葉が“パワーワード”だともてはやされる流れは品性を感じられず、到底受け入れられません。

同じ言葉の問題として「100億の男」っていうやつ。これも気持ち悪い。ホストじゃないんだから。歌舞伎町で見かけるダサい看板を想起させるような言葉を、平然と好きなキャラクターに当てはめられる心理がわかりません。これ本当だったら「ガイアが俺に〜」みたいなネタ語として扱われるような言葉でしょう?

 

次に過剰なほどの熱狂ぶりについて。

別に老害だと言われようが知ったこっちゃないんですが、原作コナンをずっと追ってきた身として今の熱狂ぶりはうざいです。斜め読みだったのでリンク貼れないんですが、「こんなに騒いでも女オタは原作読まないでグッズしか買わない」って言ってる人がいて、本当にその通りだなと。偏見かもしれないですが、どうせ漫画は安室登場巻だけ買ってあとは缶バッジとかクリアファイルとかわけわからんものばかり買うんだろうなと思うととてもイラっとします。*2

結局、彼女ら(彼もいるかもしれませんが)が見ているのはキャラクターであり、もっと言えばその見た目や声、性格といった萌え要素だけで、作品なんかこれっぽっちも気にしていないんだろうなと思うと、ブームが非常に目障りです。

こういう一過性の人気は作品の質自体も落としかねません。グルメリポーターをやっていた知人によると、例えば、テレビで「〇〇屋のナントカというメニューが美味い!」と紹介されると、

・一気に人気に火がついてそのお店のキャパを超える人数が押し寄せる→店のサービスが悪くなって常連客の足が遠のく

・紹介メニューのみ売上が伸び、仕入れのバランスが崩れて他メニューを出せなくなり常連客の足が遠のく

という悪循環が発生し、その後人気が下火になるとミーハー客も減るので結果閉店寸前、みたいなことになる場合がよくあるそうです。

別に全部が全部そうなるわけじゃないですし、飲食店の話をそのままアニメマンガに持ってくるのも少し横暴ではありますが、でも同じようなことは起こるはずです。現に僕がそう感じてるし。公式の安室推しとか見てらんない。需給のバランスが取れた状態っていうのが作り手受け手どちらにとっても幸せなことだと思うんです。

別に流行ってるからといって無理に乗っからなくて結構です。こっちはこっちで楽しんでんだよ。って気持ち。

ってかコナン安室のカップリングってなんだよ意味わかんねーわ。二人のどこにそういう信頼関係があんだよ。安室有能かっこいいっていうけど、むしろ赤井に敵わないポンコツ空回りキャラだろ何言ってんだおめーら。

 

アイドル化もひどいですね。ジャニーズじゃねーんだから。アイドル騒ぎがしたいなら三次元のアイドルとかアイドルアニメでやってくれって思うんですよ。

安室透はアイドルじゃありません。それと古谷徹も、火に油を注ぐと一般からのコンテンツの認識が歪むのでやめてほしいです。

 

 


 

名探偵コナン』がSNSでおもちゃにされるたびにこの下書きを読み返して、気持ちを鎮めていました。特に理由があるわけではないですが、なんとなく公開する気になって、加筆しています。

 

名探偵コナン』に対する違和感というのは、この下書きを書く以前からずっとあって、『から紅』のときにも強く感じていました。(平次で遊ぶな!てきな)

安室周りがあまりにひどくて、我慢できずに書いたという経緯ですね。

 

残念ながら『名探偵コナン』を取り巻く状況は、僕からすると改善していません。むしろ悪化しています。テレビで過去作が放送されるたびにSNSから逃げています。

 

今年、2020年の劇場作は公開延期となり、5/22現在も予定は発表されていないですね。昨今の騒動の後、映画産業がどうなるのかはとても気になりますが、こればかりは神のみぞ知るところです。

 

 

こんな感じのぼやきは下書きにまだまだ眠っていますので、今後公開することがあるかもしれません。

 

*1:名探偵コナン ゼロの執行人』(東宝、2018)

*2:読み返した反省点として、グッズを買うこと自体は製作の利益になるので問題ではないですね。ただ、サンデー本誌の売上には影響がなく、「一過性の視聴者が原作を読まない」という偏見はあながち間違いというわけでもありません。※参考:

一般社団法人 日本雑誌協会 / 

名探偵コナンが腐女子を迎合し何が起きたか|ナン|note

ジェンダーと「私」

 ナインティナイン岡村隆史が女性蔑視で炎上しているのを受け、ジェンダーについてぼんやりと考えています。僕自身の視野の変化か、それとも社会の変化かはわかりませんが、ジェンダー論はここ数年トレンドで、その話題に触れない日はないと言っても過言ではないかもしれない。

 岡村については何も詳しくはないので、ここで書くつもりはありません。*1ただ、特に矢部浩之の発言以降により盛んになっているジェンダーの問題について、僕が以前から感じていた違和感を書いておこうという記事になります。

 

 ジェンダーを語るときには「男」と「女」という主語が用いられる。僕はまず、そして最も、ここに違和感を感じずにはいられない。多様化の時代、個人主義の時代というのは現代の共通認識であるように思うが、そのような時代において、カギカッコで括られるような主張は果たして有効なのでしょうか。

 もちろん、有効であるから使われるのであって、いまだ「大きな物語」は機能しているというのが僕の個人的見解です。しかし、個別化の道の歩むことを決めた歴史に抗い、前時代の価値観に縛られることは不毛に思えてしまう。

 きちんと資料にあたっているわけではないので、僕個人の勝手な認識として捉えてもらいたいですが、ジェンダーレスが目指していることは「男」「女」の破壊であるのではないか。「女」であるmaleもいて、「男」であるfemaleもいて、「男」でも「女」でもないmale, femaleがいる。最終的にジェンダーとは「私」に収束される。相似であったとしても、絶対に合同ではない無数の「私」へとジェンダーは分化していく。ジェンダーレスはその多様性に向けあらゆるカギカッコを壊していくのが目標なのではないのか。であるならば、「おじさんは~」「おばさんは~」という発言はどこまでいっても先入観を打ち破る一太刀にはなりえません。

 

 議論が活発になるSNSの構造が、ひとつの枷ではないかと思います。SNSは「私」を語れるようであって、そうではない。本来的には「私」を語れますが(そうしている人もいるが)、そこではネットリテラシーというためらいの下に匿名性が付与され、あるいは強迫的な承認欲求(共感性)によるゆがみが生じてます。いいねの多さは、「私」の対岸にあるのです。

 よくあるSNSでのジェンダー論争としては、「夫が~」というような発言が拡散され、共感なり反感なりが広まっていく形になると思います。僕が思うのは、この「夫」も発言者の「私」も、極めて個的な存在であり、匿名的に消費されてはならないということです。「私」には「私」の数だけの背景(context)があり、それをないがしろにすることこそ、僕が絶対に認めたくない行為です。

 難しいのは、人間が社会性を免れることができないということ。共感や攻撃はどんな蜜よりも甘いです。だからこそ、いまだ「大きな物語」は機能している。しかし、最大公約数による分断は、たとえば池袋の交通事故や、ウイルス差別、そして「男」と「女」のような戦争を招くだけです。僕らはみな素数です。公約数は1、人間であることだけ。

 

 コロナ以前、以後は必ず語られるでしょう。少なくとも、同時代的に感じているのは、大きなものにすがりたくなる「私」の弱さ、「強い個人」となることの難しさです。東日本以来、肌で感じる「非常時」は二度目です。あの時と根本的に違うのは、目に見えないこと。僕たちを振り回しているのは、ウイルスと情報です。

 結局、着地点がタイムリーな話題になってしまいましたが、ここでも「個人」の問題が浮かび上がっていると思います。the point of no returnの後をどう過ごしていくか。アフターコロナは「いま・ここ」です。

 

FINAL FANTASY VII REMAKE 感想

FF7Rの感想です。重大なネタバレあり。注意してください。

 

まず、今作の感想を語る前に、僕にとってFF7がどのような存在なのか説明したいと思います。

 

僕がFF7、ひいてはFFシリーズをはじめてプレイしたのがCRISIS CORE FINAL FANTASY VIIでした。小学生の時に買ってもらったソフトと同梱版のpspは今でもゲーム棚に仕舞ってあります。それまで任天堂ユーザーだった僕にとって、pspというのはちょっと背伸び(パンツ)するようなドキドキするハードで(CEROだってBだし)、ひとつの「特別」でした。

タイミングよく初代ディシディアが発売されたのもその頃で、以来FFシリーズを追うようになったというわけです。ps3FF13、vitaはFF10仕様のものを買うぐらいにはのめりこんでいきました。

無印を初プレイしたのは、中3か高1ぐらいだったと思います。今思うとそれほど原作デビューは早くないですが、CC自体、ゲーム下手などあって2、3年越しのクリアで、寄り道ばかりしてしまうのが僕の性なんでしょう。

それでも、同じ97年生まれという巡り合わせの下で、FF7は僕にとって充分に「運命」だったのです。

 

自分語りはここらへんで区切って、本題に移りましょう。

 

先に結論から。とても良かったです。予想以上の好作でした。

できるだけ客観的に評価するなら、大きな不満点はシナリオが新規向きではないこと、プレイアブルキャラクターが少ない及びパーティー編成できないことぐらいで、ボリュームもあり、歯応えもあり(NORMALでプレイしました)、やり込み要素クリア後要素もあり、戦闘もおもしろい、映像も美麗でフルプライスのソフトとしての及第点をクリアしていると思えます。

 

ファンとしての評価も、とても素晴らしいと感じました。

やはり映像全体が美しくなっていることが素晴らしくて、制作発表のときも、今作のOPも、クラウドたちが、あのシーンが、あの音楽が、蘇って目の前に現れるというだけで感涙してしまいます。作り込まれたミッドガルを歩けるのが素直に嬉しい。七番街スラムからプレートを見上げた時の感動は、FF7ファンにはぜひ体験してもらいたいです。

どうしてもオリジナルの要素を感じる音楽やセリフにいちいち喜んでしまいますが、アレンジも悪くはありません。ビッグス、ウェッジ、ジェシーの掘り下げも良いですし、女装イベントも遊び心を存分に感じました。

そしてシナリオ。とてもうまくまとめたと思います。

いわゆるエアリス生存ルートを可能にするために、並行世界設定を持ってくるというのは、ファン心理としては刺さるものがある。

「生まれる前から伝説」というコピーが中々秀逸です。ファンはプレイ前にこれを見たときは、作品とセフィロスとのダブルミーニングにニヤリとすると思うのですが、クリアして改めてこのコピーに触れると、プレイヤーひとりひとりが背負っている無印の経験という伝説=運命を乗り越えていくという意味が生まれるという仕立てになっているのですね。

プレイ前は情報を制限していたのでCM等はあまり見ていないのですが、チラ見した印象でも(特に特別長編CMなど)、僕たちの中に眠る伝説(思い出)というのが意識されているように思えます。

 

個人的な話にからんだ評価として。

僕にとって無印はまさに「(僕が)生まれる前から伝説」であって、リアルタイムでプレイすることは叶わない運命でした。そのことはずっと僕の中のわだかまりになっていた。Rの製作発表に泣いて喜んだのは、FF7を同時代に感じられるからでした。そして実際に発売日を待ち焦がれたこと、はやる気持ちを抑えてプレイしたこと、一日中テレビにかじりついたこと。僕にとっての運命をも超えていくという奇跡に心を動かさずにはいられなかったです。”僕”が、当時の人達と同じように、そして子供の頃のように”FF7”を待ちに待ってプレイした思い出は、一生ものになりました。

ザックス生存ルートの可能性というのもCCファンとして個人的に高ポイントでした。

 

人にはそれぞれ「特別」があると思います。僕にとってかけがえのないもののひとつ、それがFF7です。

ゴールドソーサーはどうなるんだろう。ユフィは、シドは、ヴィンセントは、ケット・シーは。タークスも掘り下げられるのかな。ルーファウス歓迎式典はどんな曲にリメイクされてるかな。召喚獣は増えるだろうか。てきのわざは増えるだろうか。ワールドマップはどうなるのか。

疑問はいっぱいです。期待もいっぱいです。本当に次作が待ち遠しい。

それまでたくさんやり込みます。いつかRが伝説となれるように。

 

 

ちなみに、ACは見たし持ってるんですが、BCとDCはやっておらず… 特にBCはもうプレイすることは不可能なので、どうにか辿る方法はないだろうかと探しております。リメイクしてくれてもいいのよ。

 

 

 

追記(2020.4.17)

藤原啓治さんの訃報を受けて。

松来未祐さんの訃報を知ったとき、僕は下セカを見た後でした。ちょうどアニメに興味を持ち始めて、アニラジという文化があることを知って、大役を演じていなくても、いろいろな役者さんが、そして僕たちと同じ普通の人間がアフレコをしていることを知りました。その中に松来さんがいました。

石塚運昇さんの訃報は、旅行先の空港で機内モードを切って真っ先に触れたニュースでした。機内では、ダウンロードしていた初代アニポケを見ていました。オーキド博士の次回予告を聞いた直後でした。

偶然なんか、挙げだしたらきりがありません。ある意味で世界はすべて偶然でもあり、必然でもあります。僕らがそれに気づいているか気づいていないか、偶然と思うか思わないかの違いしかないです。

 

あえて、オタクらしく、僕が個人的に好んでいた呼称を使います。啓治くんは、僕の「特別」の一人でした。

CCでレノの声をきいたとき、友達の家でキングダムハーツを遊んだとき、夕飯あとにクレヨンしんちゃんを見ていたとき。幼いときからその「声」がそばにありました。成長して、興味の幅が広がっても、そこには啓治くんの「声」がありました。

アニメに興味を持ち始めた当初、うたわれるものが好きになりました。うたわれらじおを聞いて、すごい面白いと感じていた最中、うたわれるもののゲームの新作が出て、アニメ化もするというニュースが出ました。とても嬉しかったです。その新作の主役のキャストが啓治くんでした。オタクらしく喜びました。その後、病気療養するというニュースを聞いて、心配しました。同時にダブル主演の他方であった種田梨沙さんも休養の知らせもあり、松来さんのことなどもあり、多くのファンが二人を心配していたとおもいます。

復帰の知らせを聞いたときは、勝手に全快したとのだと思いました。

Rのレノの声を聞いたとき、前と違うなと感じました。まだ本調子じゃなかったのかな、収録が療養に重なって代役を立てたのかなと思いました。

 

 運昇さんのときに痛いほどに感じたのですが、いままでそばにいた「声」が「記憶」に変わる瞬間は、とても苦しいです。「声」の形が急にとけてしまって、二度と戻らなくなってしまうような。会ったことがなくても、運昇さんも啓治くんも、僕にとってかけがいのない人たちでした。

 

意味がないとわかっていても、この偶然を神様に恨まずにはいられません。月並みでも、もっと啓治くんの声が聞きたかった。待っている作品がいっぱいあった。

これからもこういうことは起きると思います。それどころか、年を重ねるほどに増えるはずで、僕はそれがとても怖いです。僕は人が死ぬのが怖いです。純粋なエゴとして、僕は誰にも死んでほしくない。それに立ち向かっていく勇気がない。

でも、昔から時間が解決してくれると言われているように、きっときちんと受け入れられる日が来るんだろうと思う。運昇さんの声を聞くのも、ちょっとつらいけど、すごくあたたかい気持ちになるようになったから。

 

啓治くん、いままで本当にありがとうございました。大好きです。

片渕須直のインタビューの整理と個人的な考え

自分向けですが。

日本アニメは世界の潮流から外れている 片渕須直監督が本気で心配する、その将来:朝日新聞GLOBE+

 

  • 日本のアニメーション

「多様」ではない。厳密には「多様」な作品は非常にアンダーグラウンド。「インディー」との関わり。ここらへんについては土居伸彰。

 

大人向け→なし

大きな子供向け*1→深夜アニメ

子供向け→ドラえもんプリキュア

 

  • 海外(欧米、アジア)のアニメーション

「多様」なアニメーション系。

 

大人向け→映画祭

大きな子供向け→「ジャパニメーション」もの

子供向け→ピクサー

 

 

以上の片淵の認識は大筋間違っていないと思う。

 

海外における、アニメーションが映画として(再)認知される動き(仏の『手をなくした少女』)についても正しいだろう。”映画”祭におけるアニメーションなど。ここらへんは圧倒的に海外の方が映像文化の土壌が育っている。日本が壊滅的なのは作り手*2だけのせいではないです。受け手にも政府にも責任がある、というのはまた別のお話。過去記事にちょっとその話題あるけどこてんぱんにダメ出しされたのであまり参考にはならないかも。

 

『若おかみ』がまたかと言われるというエピソードについてはさすがに海外の方の見方が悪いかと。大人向けではないが、あれは明らかに子供向け。大きな子供向けではない。ただし、「ジャパニメーション」というジャンルは「大きな子供向け」と合同ではなく、表現スタイルとも被っているのでここらへんは要考。表象形式の意味ではまたかと言われても仕方ない。萌え絵や3コマ。

 

深夜アニメ(「ジャパニメーション」)の巨大化、独占化は事実だが、子供向けアニメが衰退しているかについては疑問。アイカツ、プリチャン、妖怪ウォッチはまだまだ若手だし、かなり積極的な作品作りをしているコンテンツもある。ブランドの固定化も・親が子供に見させる ・子供同士の話題作り ・おもちゃを売るといった要因があるのでそうならざるを得ないというのが正しいと思う。海外の子供向けテレビアニメよくわからないが、とりわけ日本が機能不全ということはないだろう。劇場作に関しても『若おかみ』の例があるし、海外の大スタジオより数は少ないかもしれないが、今後それらが全くなくなるとも思えない。深夜アニメに侵食されつつあるというのは確かだろう。『名探偵コナン』の指摘はごもっとも。石岡良治

 

 

芸術性(大人向け)と娯楽性(大きな子供向けあるいは子供向け)の対立を持ち出す人が多いが、これは記者(大きな子供向け寄り。たぶんこの人「ジャパニメーション」大好き)と片淵(大人向け制作中。昨年末公開したけど)の立場の違いに影響されすぎ。芸術性と娯楽性は偏りはあれどどのターゲット層にも見いだされるもの。

 

大きな子供向けが広がりすぎていることについては、仕方ないと思う反面、なおさなきゃとも思う。大きな子供向けストリームは10年20年の話ではない*3のである意味仕方ないが、それが健全な状態でないとは個人的に思う。それこそ多様性が足りないし、一消費者としてつまらない。

 これは良い指摘で、感覚は変化して当然なので「あーそうゆことね」とは思っても「おもしろい」とか「好き」にならないはず。いわゆるコンテンツからの卒業という話で、僕の実感としても納得できる。

文化史(学)と社会史(学)ぜんぜん勉強してないんで下手なこと書いてたら申し訳ないけれど、かつてのように結婚子育て等のライフステージが当たり前でなくなったこと、無敵の人がたくさんいるような時代になったことで「卒業」しないこと、マルチメディア化などで思春期の感性にしがみつくことが容易になってしまったことも要因でしょう。

コンテンツとファンのすり寄り、傷のなめ合いの最高値更新中が現在であることは間違いなく、いずれ破綻するのでよくないです。ただこれは複雑な問題なのでどこかをただせばすぐ解決というわけにもいかない。この話をきちんと調べて書くとすごいことになるのでこのへんで切ります。

 

では日本で大人向けはつくれるのか。日本の映像文化の地盤が終わっていることから、たぶん無理。そうとう頑張んないと。とは言っても、僕が個人的にそこらへんに興味を持ちはじめたからそう見えるのかもしれないが、『この世界』、高畑展、海外作の輸入など以前よりも確実に盛んにはなってるので、そこらへんは片淵さん頑張ってください。僕も出来うる限り見て、調べていきたい。

 

 

芸術における子供向けと大人向けについて、童謡/その他、児童文学/その他は思いつくんですけど、建築、絵画、彫刻ってなにかありますかね。

 

追記

https://twitter.com/tanusuke45/status/1235754187251564545?s=21

https://twitter.com/umegrafix/status/1235888002917740544?s=21

*1:後期思春期。これが学術的に正しい用語か確認が取れなかったので俗称として前者を使用

*2:これも実制作者とプロデューサーのふたつある

*3:ここらへんの文化史がまだまだ弱いので良い本があれば教えていただけると嬉しいです