村田朋泰展「Omen」 レポート

昨年のことになりますが、村田朋泰展「Omen」に行ってきました。

村田監督と少しお話できたのでそのレポートです。

 

 

文楽がお好きだという情報を聞いていたので、そのことについてお尋ねしました

・谷崎の『蓼食う虫』が好き

文楽は段に分かれているが、段の間は場面が変化せず時間も飛ばない。脇役も止まってはおらずかすかに動いて主役を際立たせている。つまり、観客に時間をそのまま体験させること

太夫を聞くのが文楽と言われる。人形という視覚イメージは補助的なものだが、たしかに存在している

・視覚的な意味よりも感覚的な、右脳で感じ取る体験が文楽であり、自分もそういう作品を目指している

人形使いの手から手へ伝えていく伝承が大切。2Dや3DCGIも伝承はするが、アナログなところが重要

人形遣いの桐竹勘次郎さんと親しくしている

・観客を魅了すること

 

かなり前のことなので、メモをまとめる程度で。文楽とアニメーションについては僕もかなり興味があるので、そこらへんの考察はしてみたいですね。村田監督の作品についてはいずれ書く機会があるかもしれません。

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ガガガ文庫『コップクラフト』 感想

ガガガ文庫で出版されている『コップクラフト』(賀東招二著、村田蓮爾イラスト)の感想です。そんながっつりではなく、今年のアニメ化に向けた軽めの感じで。ネタバレ注意です。

 

賀東招二さんと言えば京アニの脚本(ハルヒなど)や『フルメタル・パニック!』『甘城ブリリアントパーク』等のノベルスで知られている方ですね。割と名前を知っている人も多いんじゃないでしょうか?

村田蓮爾さんは『快楽天』の表紙や、サークル「PASTA‘S ESTAB」、『青の6号』や『LASTEXILE 』のキャラクターデザイン等が代表的なお仕事になりますが、その方面では有名な方ですね。

 

実を言うと僕、村田蓮爾さんの絵がめちゃくちゃ好きなんですよね。幼げな少女達とカメラでぼかしたような背景、官能的でリアルなメカや服飾、渋い男性。一から十まで好みすぎて、複製原画とか買っちゃうくらい大好きな作家さんです。

賀東招二さんも『フルメタル・パニック!』が好きだったので、このコンビは外れないだろうと。昨年末にアニメ化が発表され、恥ずかしながらその時まで本シリーズのことは認知していなかったんですが、先日文庫を購入するまでワクワクうずうずが止まりませんでした。

 

期待に違わず、めちゃくちゃ面白かったです。何と言ってもまずバディ・ポリスアクションの洋ドラ風というつくりがたまらない。特に一巻は完成度が高く、どことなくハードボイルド小説の翻訳を読んでいるかのような書き味が素晴らしかったです。アメリカンなノリも絶妙で気持ち良いスパイス。あとがきで、「アメリカのドラマシリーズの翻訳版です」とジョークを飛ばすんですが、ちょっと信じちゃうくらい質が高かったです。

2巻以降は翻訳調(ハードボイルド調)が薄れ、賀東氏本来の(といっても『フルメタ』しか読んだことないので、『フルメタ』っぽいという意味ですが)コメディとシリアスの入り交ざった文体に戻ってきていますが、それでもやっぱり面白いです。

やはりマトバとティラナの主人公二人が良いですね。僕はボーイミーツガールに著しく弱いので(フルメタ』一巻のサブタイは「戦うボーイ・ミーツ・ガール」)、おっさんと少女という使い古されたペアとわかりつつも、むしろそのテンプレ感が良いです。凸凹コンビの魅力が詰まってます。

個人的に好きなのが、「十五年前〜」から始まる、世界観を説明する枕詞。毎話、短いアバンから枕が挟まって「COP CRAFT」のタイトルロゴが印刷された見開きページに移るのがそれっぽくて好きです。『コップクラフト』の良さは「それっぽさ」だと思います。あとがきで洋ドラ版のティラナ役を演じる女性が出てきたり、黒人の警部やゲイの同僚など「それっぽい」設定が散りばめられていて、それをニヤニヤしながら読むのがひたすら楽しい。パロディ小説として本当に面白いです。

他にも、個人的に車と写真が好きなので、扉の風景写真やちょくちょく出てくる車の描写に嗜好をくすぐられます。また村田さんのメカのイラストがめっちゃ良いんです。

 

2019年内のアニメ化が決定しており、非常に楽しみなのと同時に、しっかり作ってほしいなという不安もあります。

できれば、マッドハウスかIGの硬めの画作りで、90年代アニメ風のミリタリー感も欲しいですし、声優も吹き替えができる方に担当してもらえると「それっぽく」て面白いなぁ、なんて。でも、ティラナは釘宮理恵かなぁ、とか。

僕の好きな要素が詰まりすぎてて、傷つけて欲しくないみたいな気持ちがあります。めんどくさいオタクですね。

 

ともあれ、今夏の新刊、アニメが楽しみです。

 

※追記 2019/03/09

アニメのキービジュアルが公開されました。率直に言います。マトバがキモすぎる。なんですかあの眉毛は。頭身も気に食わないし、彩色ももっとロートーンのイメージでしょう。声優はツダケンと新人。聞かない分には判断のしようがありませんが、ツダケンの演技はいまいちだと思っているので(声は合ってると思うんですが)それも残念です。

アニメ見ない方がいいのかな。見たくないけど見たい、ジレンマです。

 

 

 

『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』『みんなの物語』感想(後編)

『みんなの物語』感想です。ネタバレ注意。前記事はこちら。

 

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実に秀逸なタイトルだと思います。『キミにきめた!』はサトシが主人公で、彼が普通の男の子であるということが再提示された物語でした。対して『みんなの物語』は群像劇で、主人公らはどこにでもいそうな、何かが足りない人たち。『キミにきめた!』ではサトシも負の感情を抱く屈折した人間であることが示されましたが、一転して本作では往年のスーパーヒーローのような快刀乱麻ぶりです。『キミにきめた!』でサトシの話は描いたので、一旦リセットし、視点を「みんな」に向けるという趣向というわけです。

 

前作ではポケモンとの出会い、そして友情の芽生えが描かれましたが、それに対して本作ではフウラシティというポケモンと共存した世界に舞台が移っています。前作は広大な自然やテンセイ山が主でしたが(ポケモンセンターすら森のなかにある!)、本作は打って変わって都市がメインなのも興味深いです。シティが中心ではありつつもその後ろにはゼラオラの住む森がある。痺れ爆弾の危機は森から都市へ流れ、そして森から都市へ向かって解決する。ポケモンパワーという標語がここにひとつ表れています。*1

 

『みんなの物語』においてはポケモンパワーという言葉が重要な役割を締めてきます。誰しも何かが欠如している。そんな「みんな」である主人公たちが一歩踏み出すことができたのは他でもないポケモンたちの力でした。前作で一度挫折したサトシが、理想的なトレーナーとしてリサに「ポケモンと一緒ならなんだってできる」と告げるのは実に感動的です。(ちょっとうろ覚えなので発言の細部が違うかもしれません

主人公たち「みんな」が口にする「ポケモンパワー」というのが制作陣から僕たち「みんな」へのメッセージになっています。

終盤はそんな「ポケモンパワー」を合言葉に事件を解決していくのですが、一つ不満点があるのはゼラオラとの関係。

 

人間不信に陥ったゼラオラ*2に対してサトシたちは「人間を信じてくれ」という言葉を掛け、最終的には和解します。そのきっかけはサトシが身を挺してポケモンを守る姿を見たからですが、本来ならばその役目は「みんな」が負うべきであった。これは「みんな」の物語ですし、なによりサトシとポケモンとの関係は前作で十二分に示されているので、フォーカスすべきは「みんな」とポケモンの関係性であるべきです。

そのきっかけの後、ラルゴが塔(?)の下敷きになりそうになるのをゼラオラが助けますが、それも逆で、ゼラオラが何か危険にさらされるのを「みんな」が助けるのが理想的な姿ではなかったでしょうか。人間がポケモンパワーを唱えるようにポケモンたちもヒューマンパワーを信じる。その相互扶助の共存関係こそ本作のテーマであったはずです。ゼラオラが助けてしまっては、ポケモンが人間をサポートする構図から抜け出ることができず、首藤さんの対等な存在という信念も揺らいでしまうことになる。

 

しかしゼラオラの件を除けば、『キミにきめた!』の演出、コンテはイマイチでしたが、『みんなの物語』は表現面でもそれなりに健闘していたと感じます。どちらもアクションの作画はかっこよかったです。

 


 

AG以降のアニメと映画はたまに見る程度でほぼわからないのですが、多くのコンテンツが長期化とマンネリの問題に直面することを考えればポケモンもその壁に悩まされていたことは想像できます。『キミにきめた!』『みんなの物語』の二作は、確かにそれを打ち破ったのではないでしょうか。

 

そして、今年の劇場版は『ミュウツーの逆襲』のリメイクに決定しました。脚本は首藤さんのままらしく、どのような内容になるかは見当も付きませんが、再スタートを切って一回り成長したアニメポケモンシリーズが今後どのような展開になるか、とても楽しみです。

 

※追記 2019/03/19

湯山邦彦&矢嶋哲生監督インタビュー!ポケモン映画「みんなの物語」は「新しいポケモン映画の一歩に!」 | 超!アニメディア

 

 

 

*1:ポケモン=自然、人間=都市という単純な二項対立。

*2:ゼラオラを捕獲しようとしたハンターが捕まらずに逃げてしまうのは象徴的です。前作同様、いままでの勧善懲悪路線とは一線を画した表現でもあり、人間がいまだポケモンに対して支配的であることを示唆しているようでもあります。

『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』『みんなの物語』感想(前編)

劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』と『劇場版ポケットモンスター みんなの物語』の感想と、その他ポケモンの映画についてあれこれ書いていきます。ネタバレあるので注意です。

 

ポケットモンスターは2016年にゲームシリーズが20周年、続いて17年にはTVシリーズ、18年には劇場版が20周年を迎えることとなりました。劇場版もそうですが、ゲーム、TVアニメも大きく舵を切ろうとしているのが近年よくわかります。
本題に入る前に、『キミにきめた!』がTVアニメ1話をリメイクすることはきっと20年後のポケットモンスターにとってとても大切な意味を持つんじゃないかな、ということだけ言っておこうと思います。

 


 

まず『キミにきめた!』の感想から。

『キミにきめた!』では劇場版ポケモンの3つタブーに触れています。

・伝説のポケモン ホウオウ

・言葉を話すピカチュウ

ポケモンの世界と現実の世界(メタ)

僕の記憶が正しければ、ホウオウは劇場版で触れられることはなかった(はず)。また、特権的に人語を発することのできるポケモンはいますが(テレパシー含む)、基本的にポケモンは言葉を話せず、ピカチュウにおいてはポケモンの総代表でありかつサトシとの言葉を超えた絆というあまりにも重大な責が課されているため言葉を話すという行為は言語道断です。この二つを破ったということですら非常に意義ある挑戦だったと思いますが、個人的に僕が最も禁忌とされてきたであろうと考えるのがメタ的な視点です。

 

ポケモンというコンテンツの目指す究極とは私たちの現実である地球世界がポケモン世界になること、同一化することであり、そのためにはポケモンという物語世界を現実に匹敵するレベルで強固に保ち続けなければなりませんでした。ポケモンゲームシリーズは、2016年についにポケモンGOをロンチし、いよいよもって現実生活の中にポケモンたちが入り込むというところまで理想を実現に近づけたわけです。

それに対して劇場版が示した答えは、サトシを現実の世界に持ってくるという逆のアプローチ。AR・VR技術がこのまま発展すればアニメーションを現実世界に投影するというような方法も可能になるかもしれませんが、そもそも原則としてアニメーションはゲームと異なり双方向性を有していません。ゲームを介すれば現実世界にポケモン世界を取り込むことも可能ですがアニメーションではそれが難しい。よって裏の攻法、ポケモン世界に現実世界を取り込むという選択をしたと考えられます。

 

劇場版で3つのタブーを犯すという離れ業を行ってしまう英断もさることながら、ここでもう一つ重要な要素があります。それは、サトシの心が虹を失ったということ。
『みんなの物語』との対比になりますが、本作は明らかに「サトシの物語」です。サトシという少年を今一度見つめ直す。いまやポケモンコンテンツにおいて絶対的存在となった彼を、20周年の節目において捉え直すという試みが『キミにきめた!』の大きなテーマになっています。これまでの劇場版においては、サトシは常に正義であり善であり良心でした。サトシはプラスそのもので、マイナスはいつもサトシに対峙するものとして外在していた。そのサトシをどう捉え直したのか。それはサトシの中にマイナスを取り込む、サトシが絶対的ヒーローではなくみんなと同じ男の子なんだ、ということです。

クロスに敗北したサトシは、「ピカチュウなら勝てたんだ」「初めてのポケモンゼニガメフシギダネだったらよかったのに」と口にします。この言葉は、正義の体現者でありほぼ神に近い存在として描かれてきたサトシであれば絶対口にしない言葉であり、口にしてはいけない言葉です。そこにサトシが触れてしまう。子供たちの永遠のあこがれであったサトシが実はみんなと変わらないひとりの男の子だったんだ、ということを示したのです。


ひとりの男の子に戻ったサトシは、現実世界の学校で旅に出たいと願います。自分の足で世界を見たい。コイツと一緒ならどこにだって行ける。これがポケモンが言い続けてきた「冒険」であり、母の「男の子はいつか旅に出るものなのよ」という言葉に繋がってくるのです。そうして、旅を夢見る私たちポケモン少年代表としてのサトシは現実世界から抜け出し、「ゆめと ぼうけんと! ポケット モンスターの せかいへ! レッツ ゴー!」するわけです。

 

マーシャドーの悪夢からサトシが抜け出す時、サトシは僕たちで、僕たちはサトシでした。僕たちがゲームボーイの電源を入れた時のように、サトシはポケモンの世界に旅立っていった。間違いなく、あの瞬間にポケモンの歴史が動いたと僕は思います。

 

それ踏まえると、サトシという男の子の信念、強さ、夢とは何かという問いに対する『キミにきめた!』の答えが、アニメポケモンがずっとコンセプトにしてきた「友達になること」であることの意味が輝いてきます。

『キミにきめた!』のクレジットに一部脚本という形で首藤剛志さんが載っていました。

新作ポケモン映画で17年ぶりにクレジットされた首藤剛志さんとは? | FILMAGA(フィルマガ)

上のリンク記事を是非読んで頂きたいですが、簡単に説明すると、初期TVシリーズの脚本家である首藤さんは常にサトシとピカチュウ(ポケモン)が対等な友達であることを重視しており、それゆえにピカチュウモンスターボールという一種の首輪に収まることを良しとせず、また『ミュウツーの逆襲』では本来ポケモンに命令し戦わせる立場(主従関係)であるトレーナーのサトシがポケモンたちの戦いを止めたという話です。

首藤さんは2010年に亡くなられており、『キミにきめた!』の制作に直接関わったわけではありませんが、一部脚本という形でクレジットされることになりました。

 

エスの人類愛などではなく、僕たちと対等な存在としてのサトシがあらためてポケモンとの友情を確認する。そしてその返答としてピカチュウが自ら「ずっと一緒にいたいから」と伝え、僕らとポケモンが同じ立場同じ気持ちであることが示されたのです。

個人的にはあの後無理にモンスターボールに入れず、一緒に立ち向かってほしかったなぁという気持ちはあります。サトシの仮死演出もあまり良いとは言えませんでしたし。

 

『キミにきめた!』は以上です。

次、『みんなの物語』の感想に移りたいのですが、長くなったので後編に分けます。二作は関係が深いのでこちらを読んだ方はぜひ後編も。

 

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劇場版ポケットモンスター キミにきめた! [Blu-ray]

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エヴァの時代は終わった ー日清の大坂なおみ選手アニメcm削除にみる日本アニメの問題点

日清、大坂なおみ選手のアニメCMを公開停止に 「選手活動に影響があると判断」 | ハフポスト

 

日清が大坂なおみ選手をイメージしたアニメcmを、大阪選手の事務所の要請により削除したというニュースがありました。

 

日清の対応にも問題はないと思いますし、大阪選手も「意図的に白くしたわけではないと思う。今後はこういうことは相談してほしい」という旨の発言にとどめ、大きなトラブルには至っていないようです。

 

しかし、この問題はこれで収束させていいものではないのではないか。

 

明らかに日本のアニメーションは社会的意識が欠如しています。 

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以前このような記事を書きました。きっちり文化研究したわけではないので細部不詳ですが、おそらくは大きくエヴァ以降、日本アニメはオタクの自意識と萌文化の消費にしか勤しんでこなかった。

例えば『妄想代理人』や『lain』(は少し言い過ぎか?)のような社会問題を取り扱った作品は数えるほどしかない。

自閉症のシンジくんがオナニーするが如く僕らは閉じこもり続けてきた。

 

ジャパニメーションと銘打ち、日本が世界のアニメーションを牽引すると息巻いてからしばらく経ちました。ジャパニメーション政策の問題もあちこちで取り沙汰されています。それを含め、どう考えても日本アニメは文化意識、社会意識に足りなさすぎる。

 

昨年2018年は『リズ』や『若おかみ』が話題になり、TVアニメも直近では『GRIDMAN』など優れた作品がたくさんありました。しかし、そのどれもが形式主義的で、観客もその表層(作画だの演出だの声優だの)ばかりに注目する。

記事の主張上ややバイアスのかかった批評になりますが、『リズ』のみぞれはいわばオタク(シンジくん)で、内容も例えばLGBT問題と関連させるにはあまりに薄くむしろ両者の関係は百合要素として萌の消費対象になっている。『若おかみ』も内容としては使い古された少女の成長譚で、小学生の労働問題を指摘されたこともあります。エヴァオマージュの『GRIDMAN』はいうまでもありません。

日本アニメは、いわゆるセカイ系、それに類する内容以外描いてこなかった。というよりは、消費文化の奴隷となったアニメは、オタクの望むそういう内容物しか描けなかったというのが正しいでしょう。

(追記 2019/01/25

近年過去の名作のリバイバルやリメイクが盛んになっているのも内容的発展の欠如の表れと言えます。海外の聖闘士星矢のリメイクの女体化が少し前に話題になりましたが、これも今回の件と関連するものとして再考されるべきでしょう。)

 

フォルマリズムに盲信するのは心地よいかもしれませんが、現代という時代はそれを許しません。(現に欧米では芸術と種々の社会問題について頻繁にニュースが流れています)

さらに言えば、日本人がアニメ先進国と自負する手描きアニメーションの技術やクオリティに追い迫る(抜き去る)海外の人たちも多く現れています。仏のゴブラン校などその筆頭です。

 

日清の問題はポイント・オブ・ノーリターンです。海外のメディアに日本アニメの問題点を明確に指摘されてしまった。こうなった以上、見る側も含めあらゆるアニメ関係者は無自覚ではいられないのです。